小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔3〕戦後のベンチャー

(2) 半導体ベンチャーの誕生は阻止された

 アメリカが世界初の電子コンピュータの開発に成功したと公表したのは、第2次大戦が終わった翌年の1946年です。砲撃時の弾道計算用に第2次大戦中にペンシルバニア大学で開発が始められたのですが、戦争が終わったのでアメリカの産業技術の高さを誇示するために発表に至っています。このコンピュータは、ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computerの略)と名付けられています。

 後になってわかったことですが、世界初の電子コンピュータを発明したのは、イギリスの数学者アラン・チューリングで、第2次大戦中にドイツが盛んに利用した暗号機エニグマが発生する当時最も高度であるとされた暗号解読用につくられたものでした。こちらの方は、コロッサス(COLOSSUS)と呼ばれています。これは1943年に初めて開発されていますが、イギリスは伝統的に諜報活動について世界で最も熱心で、アメリカがENIACが発明した後もなお四半世紀の間、イギリスはコロッサスの存在を世界に明かしませんでした。

エニグマ
ナチスドイツのエニグマ暗号機
〔画像出典:WikipediaFile:Enigma (crittografia) - Museo scienza e tecnologia Milano.jpg  著作権者 Alessandro Nassiri 〕

コロッサスとENIAC
イギリスのコロッサス(左)とアメリカのENIAC(右)
〔画像出典:Wikipedia File:Colossus.jpg (コロッサス)、File:Eniac.jpg (ENIAC)〕

 こうして、イギリスとアメリカは、1940年代半ばからコンピュータ開発に取り組んでいました。しかし当時のコンピュータは真空管によって動作しているために、巨大なもので、もちろん計算速度も現在のものに比べるべくもありませんでした。コンピュータの動作速度を上げるには、電子が走る回路の長さを短くすることが肝要であり、そこで期待されたのが小さくできる半導体の開発でした。半導体とは、もともと電気をよく通す導体と、電気を通しにくい絶縁体の中間の電気抵抗を示す物質のことを言うのですが、それがコンピュータに応用される頃には、半導体の性質を利用してつくられた真空管に代わる小さな電気回路素子のことを指すようになっていました。

 日本の電子技術は戦前から東北大学や東京工大を中心として盛んに研究され、八木アンテナやフェライト、あるいはNE式写真電送装置といった大発明を産んでいたのですが(その詳しい説明はここ)、その流れは戦後にも引き継がれていました。

 しかし半導体開発についての日本の産業界の出だしは早いとは言えないものでした。先駆的技術開発がなかったというのではありません。1948年にアメリカでトランジスタが発明されたことを知った東北大学の西澤潤一は、1950年にpinダイオードの特許取得でアメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック)社の出鼻を制し、1956年には耐圧2300ボルト、400アンペアと言う高性能pinダイオードを開発したのですが、国内では全く評価されず、アメリカでのみ評価されました。戦前からの東北大軽視の流れが残っていたとしか、小塩丙九郎には考えようがありません。

 落胆した西澤は、半導体を使った光通信の開発を手掛け、「半導体メーザー」と名付けた光増幅器の特許を出願したのですが(西澤はレーザーという言葉を正しく覚えていませんでした)、またまた国内で評価されず、やがて(1962年に)GEによる半導体レーザーの連続発振成功が公表されることになります。巻き返しを図る西澤は、1964年に収束性グラスファイバー(光繊維)を開発して特許出願した上で学会に発表するのですが、西澤を訪ねてきたのは日本の業界人ではなく、アメリカのベル研究所のジョン・ピアス博士であり、結局アメリカのコーニング・ダグラス社との共同開発に至り、1970年に低損失の光ファイバー開発成功発表の運びとなります(以上、森谷正規〈もりたにまさのり〉著『技術開発の昭和史』〈1986年〉による)。

 それを機に、世界中で光ファイバー開発競争に火が付くのですが、戦後四半世紀を経て尚、日本の電子関連学会の東北大軽視は続き、戦前の八木アンテナの評価失敗から続けて、多大なる電子産業発展の機会を失い続けたのです。こうして、日本は半導体と光ファイバー分野での産業開発の芽を自ら摘んでしまいました。

  • 戦前にも戦後にも、東北大学の研究者の大発明は無視され、日本は電子産業発展の機会を失い続けた。

  • 医学界では、世界水準の研究を成した北里柴三郎が学閥の大いじめに遭っている。

  • 学会での派閥活動が大いに疑われる。

 戦後の代表的ベンチャービジネスの一つであるソニーも、早くからトランジスタに取り組んでいました。東通工(東京通信工業梶Aソニーの前身)はビジネスとしては大成功していたテープレコーダ生産が大発展の可能性のある技術によるものとは考えず、難しいと思われていたトランジスタ開発に直ちに取り組みました(創業者の一人である井深大〈いぶかまさる〉自身の証言による)。

 井深や井深と並ぶ創業者である盛田(昭夫)たちは、アメリカのウエスタン・エレクトリック社から特許を購入しようと通産省に許可願を申請するのですが、WE社の許可を得てなお1年間以上通産省に足止めにされました。こうしてソニーは、世界初のトランジスタラジオの開発に失敗し、その栄誉と事業成果は、アメリカのリージェンシー社のものとなってしまいました。通産省官僚は、戦後初の近代製鉄所の建設は、川崎製鉄(株)のような弱小企業には任せられないと言い(その説明はここ)、そして今回は、先端電子技術開発は旧財閥系の大企業ではないようなところにはさせられないと言うのでした。

 こうした通産省官僚の心の中には、一つには自国技術者に対する不信があり、もう一つには官僚の言う通りにはなかなか動きそうにない新興企業嫌いがある、と小塩丙九郎は考えています。そして今に至るも、通産省→経産省官僚は、ベンチャーが嫌いなのであり、そのことによって先端技術開発が滞ることより、業界秩序が乱されることの方を心配し続けているのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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