小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔3〕戦後のベンチャー

(1) 戦後の製鉄ベンチャー

 製鉄産業を発展させ、輸出産業にまで育て上げるには、戦時中に欧米先進国から遅れてしまった技術を急いで開発して、国際競争力のある低価格を実現することが第一に必要でした。日本占領政策の基本を日本経済復興に転換したアメリカは、親身になって日本の鉄鋼技術開発を支援しています。

 例えば、1949年に来日したU.S.スチールのF.N.ヘイスやJ.T.マクラウドは平炉技術について、或いは1951年にGHQの顧問として来日したT.L.ジョセフ(ミネソタ大学)は高炉内環境管理技術についてといったように、それぞれの専門家は、日本の製鉄各社に懇切丁寧に製鉄技術を指導しています(下川義雄著『日本鉄鋼技術史』〈1989年〉より)。その過程で、特許の移転もあったでしょうが、これは小塩丙九郎の推測にすぎませんが、恐らくその移転料は格安に設定されたことでしょう。

 1949年に、ドッジ・ラインに基づき円/ドル為替レートが複数レート制から単一固定制になり、従来1ドル=178円で買えていた輸入炭は、1ドル=360円でないと買えなくなりました。つまり、輸入炭のコストはおよそ2倍になり、国内炭は依然として大いに不足していました。日本の製鉄企業は、「合理化」と呼ばれた生産性の向上に懸命に励む必要があり、アメリカの製鉄会社や大学から来た専門技術者の日本の製鉄会社に対する指導の意味するところは、まことに大きかったと言えます。

 1950年代後半から1960年代にかけて、八幡、富士、川鉄(川崎製鉄)、住金(住友金属)、神鋼(神戸製鋼)といった製鉄各社は、世界銀行からの借款を得て、多くの高炉を建設しました。アメリカ占領軍司令部、GHQ、は、占領当初の大目的のひとつであった“民主化”の一環として、戦前からの財閥を解体していました。そして官営八幡製鉄所を母体に民間の多くの製鉄所を糾合して国策会社とされていた日本製鐵梶i1934年の製鉄合同、その詳しい説明はここ)を八幡製鉄鰍ニ富士製鉄鰍フそれぞれほぼ同じ規模の2社に解体していました。そうして生まれた自由な市場環境の中で、多くの人々は創造的な事業を開発し始めていました。その代表例として、一万田尚登〈いちまたひさと〉日本銀行総裁に代表される政府官僚や日銀官僚の制止を振り切って、新興川崎製鉄鰍ェ近代的な銑鋼一貫生産体制を整えた千葉製鉄所を建設したことがあります。

 ちなみに、世界銀行は、第2次大戦後の世界の経済構造のあり方を決めたブレトンウッズ会議の中でIMF(国際通貨基金)とともに設立された先進国の復興と開発途上国の開発を目的とした金融機関ですが、ソ連が参加しなかったために、アメリカ主導の下に運営されてきた機関です。1946年に設立されて以来現在(2016年)まで12代の総裁がいますが、すべてアメリカ人であることが、世界銀行の性格を表していると思います。その世界銀行が、日本の企業に多額の融資を提供したのですが、日本銀行初めとする国内金融機関が、旧財閥系でない新興企業への融資を渋る中で、世界銀行が供給する事業資金は、日本の自由な市場の下での企業の成長を可能とするまことに貴重なものであったと言えます。

  • 川崎製鉄は、世界を目指した。

  • 国内の反対を見ながらアメリカはそれを応援した。

  • 所詮世界企業にはなれないのだからと見くびっていたのか、それともアメリカの善意であるのか?そこのところは、よくわからない。

  • 後年貿易摩擦は起きたが、本当にアメリカの製鉄産業を追い込んだのは、日本ではなく中国であった。

 川崎製鉄鰍ヘ、1948年に川崎重工梶i川崎造船鰍ェ1939年に社名変更)の製鉄部門が独立して設立されました。それ以前は平炉(銑鉄と鉄スクラップを原料に鋼を製造る装置)しか持たず、銑鉄は日本製鐵から供給を受けていました。そこで、川崎製鉄は、銑鋼一貫生産工場をつくりたいと言い始めたのです。

 しかし通産省や日本銀行の官僚たちからは、銑鉄が必要ならば、未稼働の既存炉を使えばいいし、設立したての僅か5億円の資本金しか持たない企業が、163億円の一貫製鉄所を建設するのは無謀だとしてその構想の実現を阻止しようとしたのです。しかし、敗戦直後のGHQに民主化政策の一環としてのパージで社長等が追放されたために若くして社長職に就いた西山弥太郎は、戦後日本の経済発展には、世界最新鋭の設備をもった臨海の一貫製鉄所の建設が必要だという強い信念を押し通しました。そしてそれはその後の日本の製鉄所建設のモデルとなり、戦後日本の近代製鉄産業発展の礎を築くことになります。

 国内に鉄と石炭を産出しないということは、原料と燃料の輸送コストを高くして、日本の製鉄業の弱点になっていました。官営八幡製鉄所も、当初は国内から鉄鉱石を調達する予定でいたのですが、結局は清国の大治鉄鉱石に依存せざるを得ない状況に追い込まれていました。しかしその日本の立地の難点を、西山は長所に変えてしまいました。

 第2次大戦終了後の大量の鉄鉱石需要の高まりに、欧米の国内資源が応えられず、世界中から鉄鉱石を輸入することが必要となったのですが、欧米の製鉄所の多くは内陸に立地していたので、日本の臨海部に建設された製鉄所がコスト競争を勝ち抜くうえで却って有利になったのです。また川崎製鉄所の新鋭ぶりを示す次のような数値が示されています。八幡製鉄所の構内鉄道のレール延長が500キロメートルを超えていたのに対し、川鉄千葉製鉄所のそれは、60キロメートルに過ぎないというのです(山口茂著『日本の技術力』〈1986年〉より)。

 このような、世界市場を見た川崎製鉄鰍フ野心的試みは、功を奏し、当初ゼロであった川崎製鉄の高炉銑の生産シェアは、1970年には、14パーセントにまで達しています。その間、八幡製鉄と富士製鉄(ともに日本製鐵を分離してできた会社)を合わせたシェアは、当初8割から1970年にはおよそ4割(八幡、富士、各々2割)にまで半減しています。

 アメリカ軍が採った、複数の企業で自由競争するという体制を確立するという占領政策が、製鉄産業では見事に成功したのです。古い炉と古い観念に縛られる旧財閥系の製鉄会社と、そのような会社の存続に拘り続ける政府、日銀の官僚たちに対して、新興川崎製鉄は、新しい経営観念とアメリカの技術協力を得た新鋭設備で、世界から置き去りにされていた戦前日本の製鉄産業を一気に革新したということです。

 こうして、政府官僚とマルクス経済学者が目指す統制経済体制に対して、アメリカの支援を受けた川崎製鉄は、大穴をあけることに成功したことになりました。


2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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