小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔1〕敗戦直後はどうだったのか?

(2) 陸海軍工廠の技術者たちのスピン・アウト

 1945年にアメリカとの戦争に敗れ、軍は解体されたのですが、そのため当然のこと、海軍工廠と陸軍工廠で働いていた技術者たちも職を失いました。トヨタ(織機→自動車)の技術者のような例外はあったかもしれませんが、しかし、高度技術製品の頂点にある武器の設計・製造に携わり、民間の製造業者を従えていた彼らが、おおよそにおいて最優秀であったと言っても、間違いはないと思います。その彼らが、失職しました。そして彼らが向かった主な先は、1950年代の戦後復興期の産業開発を支えた企業群です。

 この辺りの事情をつぶさに紹介するのは、敗戦まで海軍航空技術廠で働いていた科学ジャーナリストの岸田純之助(2012年没)です(岸田純之助著『戦後技術の体質を決めたもの』〈中山茂編『日本の技術力』《1986年》蔵〉より)。最も大勢の技術者が行った先の一つは、自動車産業です。彼らはそこで、エンジンやバネの開発にその実績を活かします。

 岸田は、中でも最も面白いのは、スバル360(cc)で、航空工廠出の機体設計技術者が行ったから、ああ言ったものが発想できたと言います。ボディ重量を軽くするためには鉄板を標準以上に薄くしなければなりませんが、航空工学の考えに従い、車体を卵の殻のように丸くすれば、それでも必要な強度は実現できるというのです。スバル360(1958-70年生産)は、よく知られているように、39万台もつくられた戦後日本のモータリゼーションの立役者の一です。

スバル360
〔画像出典:Wikipedia File:1958 Subaru 360 01.jpg 著作権者 Mytho88〕

 航空技術者と言えば、流体力学が得意であるのは当然です。その知識は、製粉会社(日清製粉梶jの工場内での粉状の材料や製品の搬送技術に役だちました。或いは、振動の技術者は、建設会社に入って近代高層ビルの耐震構造を開発しました。航空技術は、多くの個別技術の集大成であるので、システム工学の素養を獲得していた技術者たちは、製造プラントの建設にも役だちました。

 中には、自ら起業した野心的な人たちもいました。例えば、電子顕微鏡などの精密機器や理化学機器を製造・販売する日本電子鰍竡末ア用品メーカーの渇ェ村製作所も工廠出身の技術者たちがつくりました。居場所を失くした全国トップの技術者たちが、一斉に民間企業に散りました。今の言葉で言えば、「スピン・アウト」したということになります。19970年代にNASAが大幅に縮小された時に、多くの技術者が情報産業に散ったようにです(その詳しい説明はここ)。

 その他、民間企業にではなく国鉄に入った者も大勢いました。そしてそれらの者の技術は後に、世界初の高速鉄道、新幹線(1964年開業)、を開発する中でおおいに活かされました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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