小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


この章のポイント
  1. 太平洋戦争敗戦直後の日本に、多くの生産設備が残されていた。戦後は「ゼロからの出発」ではない。

  2. 多くの技術者も残された。もっとも有能な軍に働く技術者たちの多くが、自動車産業等の民生産業にスピンアウトした。

  3. 復興総合経済対策は早々答申されたが、具体策をまったく欠き、戦前・戦中の統制経済対策を続けろという代物だった。官僚にも経済学者にも、産業構造改革を行う意思はまったくなかった。

  4. 東西冷戦が始まったアメリカの占領政策が大転換されて、日本は救われた。

  5. 戦後のハイパーインフレを放置すべきとする官僚と経済学者の動きは、アメリカ政府により抑え込まれ、ようやく国際市場への参加資格が整った。

  6. 傾斜生産方式の成功は、官僚と経済学者に国家計画経済体制についての確信を深めさせ、それは現在の体制にまでつながっている。

  7. 日米両国の物価序章率の差を無視する名目円/ドル為替レートに拘り、円安が善だとする異様な為替政策が始まり、現在に至っている。

  8. アメリカ軍占領中に、製鉄、自動車等のベンチャーが育った。アメリカが去ると、官僚と経済学者によるベンチャー抑制が始まった。


〔1〕敗戦直後はどうだったのか?

(1) 「戦後はゼロからの出発」ではない!

 多くの歴史学者も、経済学者も、日本は戦争が終わった時に焼け野原であって、戦後はゼロからの出発であったと説明しています。そしてそれが日本国民の常識となっています。しかしこの主張は、まったくに事実に反しています。「1930年代から戦時中にかけて建設されてきた資本設備の大部分は戦災を受けることなく残されていた」(安場保吉・猪木武徳著『概説 1955-80年』〈岩波書店『日本経済史8 高度成長』《1989年》蔵〉より)のです。

 巨艦を建造した大型ドックや生産機械設備の多くが、終戦の時に残されていました。アメリカは、貨物船を潜水艦による魚雷攻撃で沈めて、日本の資材輸入を止めれば自然に工業生産が止まるので、工場設備を破壊せずに、戦後賠償用に温存していたのです。

 産業の基礎である粗鋼の供給について、先ず1940年にアメリカは屑鉄の日本への輸出を禁止しました。このため、鉄鉱石の輸送は1940年を、コークス用原炭の輸送は1942年をピークに減少し、銑鉄(せんてつ;鋼の一歩手前の段階)の生産は1942年を、粗鋼の生産は1943年をそれぞれピークに減少しました。つまり、日本の製鉄工場が破壊されなくても、戦争半ばで日本の製鉄量は減少し始めていました。それで、製鉄所を空襲する必要はなくなりました。

 京都や別府が、占領軍兵士の慰安用に温存されたように、アメリカは日本の製鉄工場を温存しました。他の工場についても、同様です。アメリカは早くに戦勝を確信していました。そういう歴史経済学者の解説を見つけたわけではありませんが、それが日本の工場が空襲に遭わずに済んだことを説明できる唯一の合理的な説明でしょう。

 工場施設の多くは、戦後賠償財として戦勝国に運び出されるはずのものでした。戦勝直後のアメリカを初めとする連合国は、日本の交戦能力を徹底的に除去することを第一の目的として、戦後日本の経済復興のことを考えてはいませんでした。戦後すぐにアメリカ占領軍司令部、GHQ、により日本の製鉄設備は解体して海外に運び出すとの説明を受けた外務省官僚が抗弁すると、「鉄は鉄鉱石と石炭の両方が大量にとれる中国で生産するのがいい。日本が鉄を必要とするというのなら、中国から買えばいい」という、にべもない答えが返ってきたと言います。

 アメリカを初めとする連合国は、日本占領の第1の目的を日本の軍隊を解散させて継戦能力をなくすとともに、2度と戦争が行えないような国体に変えることとしていました。そのためには、日本には軽工業の復興だけを認めて、製鉄を初めとする重工業の開発は認めない方がいい、と考えていたのです。残された日本製鐵(株)の八幡製鉄所の写真(飯田賢一著『鉄の100年 八幡製鉄所』〈1988年〉掲載)を見ると、製鉄所の敷地一歩外の市街地がすべて焼き尽くされているのに対して、工場構内はウソのように無傷で残されています。アメリカ軍の爆撃技術の高さを感じて、打ちのめされる気分にさせられる写真です。

  • 外務省官僚は、「敗戦」を「終戦」と言い換えた。

  • 経済学者たちは、戦後すべてが焼け野原だったと国民に告げた。

  • 為政者たちが国民に真実を告げようとしないのは、どうしてなのだろうか?

 日本の市街地は全国どこでも焼夷弾の雨を浴びて、焼け果てたのですが、都市住民の眼の届かない工場地帯はアメリカ軍の空襲を免れていたわけです。なぜだか、今日戦争直後の工場地帯の写真を探すのは容易ではありません。先ほどの写真は、まことに貴重なものです。

 それでは、八幡製鉄所以外の日本の生産設備はどの程度残されていたのでしょうか? そのデータは、経済安定本部『太平洋戦争による我が国の被害総合報告書』(1949年)の付属図書に記載されています(宮崎正康・伊藤修著『戦時・戦後の産業と企業』〈岩波書店『日本経済史7―「計画化」と「民主化」』《1989年》収蔵〉より)。そしてそこでは漏れている造船所についての記録は、小野塚一郎著『戦時造船史』(1989年)に記載があります。それらをまとめて、太平洋戦争中の生産設備能力の残存率として表示したのが下のグラフです。この残存率とは、1941年から1945年までの最高設備能力に対する、戦争終結時の工場設備能力の割合をいいます。

出典:本文中に説明の通り。

 火力発電設備こそ、そのおよそ半分が破壊されていますが、水力発電設備は無傷です。そして各種製鉄設備、鉛精錬設備、亜鉛生産設備も無傷、銅精錬設備、錫精錬設備が9割、アルミニウム精錬設備は7.5割残されているという状況です。造船設備も無傷です。化学工場についても石灰窒素工場がほぼ無傷の他、その他大半が6割から9割残されています。工作機械工場ですら、6割以上が残されています。その他残存率が低いものに繊維産業関連工場設備がありますが、これはアメリカの空襲によって破壊されたのではなく、日本自身がその工場設備を軍需工場で使うために持ち出したためです。

 日本は、「終戦とともに国中焼け野原になった」と歴史学者や経済学者は言います。しかし、この情緒的な表現に反して実際には、アメリカは、国外には持ち出せない民家やビルは丸焼きにしましたが、国外に持ち出せる価値ある生産機械は壊さずに残しました。

 東京帝国大学も、空襲を免れました。それは駐車スペースがたっぷりとれる大学キャンパスを占領軍本部施設用に利用したいという目論見がアメリカ軍にあったからです。しかし結局、日本政府の懸命の要請と国際世論の反発を恐れたアメリカ軍がその計画を放棄したために、アメリカ軍に接収されることは免れました。これは、余談です。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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