小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔3〕日本の第2の経済破綻への道

(7) 高橋是清財政とは一体何だったのか?

 高橋是清蔵相は、就任以来国債を大増発して、それを財源に景気浮揚を行い、世界のどの国にも先駆けて不況から脱出したとして、多くの日本の経済学者から高く評価されています。それでは、そうして拡大された政府予算は一体何に使われたのでしょうか? 1931年度から1933年度までの2年間に、政府の歳出総額のGDPに対する比率は11.1パーセントから14.7パーセントへと3.6パーセントポイント増やされています。そしてその間、軍事費のGDPに対する比率は3.5パーセントから5.6パーセントへと2.1パーセントポイントへ増えています(下のグラフを参照ください)。つまり、増やされた政府歳出予算の内、6割が軍事費に充てられていることになります。これによって、1931年9月に起こされた満州事変に始まる満州全土占領に必要な軍事作戦が可能となりました。

出典:以下のデータを素に作成。
〔日本〕日本統計協会著『日本長期統計総覧 第3、4巻』(1988年)掲載データ 〔アメリカ〕軍事費:US Government Spending.com 掲載データ、GDP:Measuring Worth 掲載データ

 その同じ間、大恐慌に悩むアメリカは、政府歳出総額のGDPに対する比率を5.3パーセントから8.9パーセントへと3.6パーセントポイント増やしています。政府支出の対GDP比率の増分だけを見れば、日本とアメリカはほぼ同じであったというわけです。そしてこの間、アメリカの軍事費支出の対GDP比率は2.0パーセントから2.4パーセントへと0.4パーセントポイントしか増やされていません。アメリカでは軍事費がほとんど増やされず、歳出増額分のほとんどが民生事業に充てられたのであり、日本と対応が際立って違っています。

 この是清財政によって、軍事費の大拡大が可能となったということは重要です。是清は、1932年度と翌33年度予算を大拡大しましたが、予算が赤字国債に全面的に頼っていたこと、そして急な財政拡大がインフレを起こしつつあったことを心配して、34年度より歳出拡大を抑えるようになります(下のグラフを参照ください)。

労働者の賃金の変化
出典:日本統計協会著『日本長期統計総覧 第3巻』(1988年)掲載データ

 しかし、軍官僚からは、満州方面で必要な戦費を賄うための軍費拡大を強く要求されていたので、一般予算支出を減額してそれに応えるのですが、それにも限度があり、軍の軍事費拡大要求に厳しい態度を見せ始めました。そしてそのことが軍官僚たちの強い不満を引き起こし、1936年に入って日も浅い2月26日のクーデター騒ぎの中で暗殺されるということになります。

 クーデター自身は不成功に終わりますが、岡田啓介内閣は倒れ、広田弘毅〈こうき〉内閣となり、軍事費は止めどない大拡大を続けて、翌年には日中戦争が始まり、そしてそのさらに4年後の1941年末にアメリカとの太平洋戦争に突入していきます。

 是清蔵相は、第1次世界大戦後の不況を克服できないうちにアメリカの大恐慌のあおりを受けて陥った昭和恐慌と呼ばれる大不況を応急的に食い止めるということには成功したのですが、しかし結局のところ、軍官僚ともたれ合いつつ歳出拡大により景気を浮揚するという日露戦争以降の大構造から脱却することはできませんでした。そして軍官僚との折り合いを悪くして蔵相の座から追いやられる(暗殺される)という不幸に見舞われたことになります。

 20世紀に入って、日本は常に戦時、或いは準戦時体制にあり、軍事費のGDPに対する比率は、アメリカが第1次世界大戦に参戦した時期を除いて常に日本の方が倍ほど高くなっていました(下のグラフを参照ください)。そしてこのことは、産業大国に成長できなかった日本にとっては余りにも加重な負担となりました。是清の軍官僚との妥協も、その先行きが見通せていたものではなかったということです。

労働者の賃金の変化
出典:以下のデータを素に作成。
〔日本〕日本統計協会著『日本長期統計総覧 第3、4巻』(1988年)掲載データ 〔アメリカ〕軍事費:US Government Spending.com 掲載データ、GDP:Measuring Worth 掲載データ


 20世紀前半、太平洋戦争が始まる前までの間に、アメリカの軍事費の累積額がアメリカのGDPとおよそ同額であったのに対して、日本はGDPの3倍にも相当する額を軍事費に割いていました(下のグラフを参照ください)。そしてその間戦った戦争は、日本にほんの僅かな経済的果実しかもたらしませんでした。貿易収支は、第1次世界大戦中を除いて、ずっと赤字のままでしたし(さらに下のグラフを参照ください)、日清戦争(1994-95年)のときのような賠償金もまったく手に入れることはできませんでした。

労働者の賃金の変化
説明:各年度の軍事費の対GDP比率を積算したものを、その期間中の対GDP比率累積値として計算した。

労働者の賃金の変化
出典:日本統計協会著『日本長期統計総覧 第3巻』(1988年)掲載データを素に作成。

 それでは、是清以降の軍官僚と経済官僚は、どこから拡大する軍事費を捻出したかと言うと、直接には赤字国債でありましたし、その帳尻を合わすためには、労働者の所得を最低限にまで抑えたのです。名目賃金は大きく下がっていませんが、その間インフレが進行したので、1920年代には工場労働者の平均実質賃金(名目賃金からインフレ分を取り除いた額)は1日3円弱(1926年価格)でしたが、1940年には2円(同)を切るほどに下げられていました(下のグラフを参照ください)。つまり、工場労働者の平均賃金は3分の1もカットされたのです。

労働者の賃金の変化
出典:日本統計協会著『日本長期統計総覧 第4巻』(1988年)掲載データを素に作成。

 先進国としての産業開発ができず、輸出品といえば専ら低賃金に頼る繊維製品だけで、先進国へ輸出できる高付加価値の工業製品はほとんどなく(このグラフを参照ください)、軍事予算をいくら拡大してもその経済成果はないという事態が日露戦争(1904-05年)以降常に進行し、そして是清暗殺以降にはその病状が急激に加速して悪化し(このグラフを参照ください)、そして1945年夏に大破綻するということになりました。

 明治新政権ができてから、3四半世紀後のことです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page