小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔3〕日本第2の経済大破綻への道

(6) 高橋是清財政礼賛の重大な的外れ

 世界水準の産業技術をいつまでたっても獲得できない日本は、輸出を最初は生糸と茶、そしてついで生糸と織物という高度の産業技術を要しない繊維産業に頼り続けることとなり(それを表すグラフはここ)、先端工業国としての発展はできませんでした。先進国への付加価値の高い工業製品の輸出ができないので、日本は次第に旧型帝国主義(これについての詳しい説明はここ)によって覇権を獲得した台湾、朝鮮、満州、さらには中国の市場支配に頼らざるを得ない体質をもつに至りました。

 それらの市場は広大であるとはいえ、先進国に比べて国民所得が低いので、日本の主力輸出品である高級生糸の消費量は少なく、或いは日本はアメリカやイギリスのものと競合できる低廉高性能の工業製品をもってはいなかったので、それらの国への輸出が日本人の所得の向上に大きく貢献することはありませんでした。その結果、日本経済は戦争を繰り返すことによってその都度軍事特需をつくりだし、それによって景気を回復し、そしてしばらくすると低成長に逆戻りするということを繰り返しています。

 その様子は、日本人の1人当たり実質GDPが、20世紀に入っていったどれほど伸びたのかということを統計で調べればわかります。なお、実質GDPは名目GDPを長期間にわたって一貫したデータが得られる卸売物価指数と人口で割って計算して得ています。それを示すのが下のグラフです。なお単年ごとの変化は大き過ぎるので、5年前からその年までの5年間の平均伸び率を順につなげていく5年間移動平均値でグラフは表しています。名目GDPからインフレ要素を取り除いた実質GDPの伸び率は2から6パーセントの間にあり、先進国としては比較的高い伸び率を示しています。

出典:日本統計協会著『日本期統計総覧 第3、4巻』(1988年)掲載データを素に作成。

 しかし、1人当たりGDPの伸び率は常にそれより2パーセントポイント低く、0から5パーセントの間にあります。これは先進国としては、むしろ低い数値です。このことは、20世紀前半の日本のGDPの伸びは、生産性の伸びよりも、むしろ人口の伸びによって得られているということを示しています。「産めよ!増やせよ!」は、政府が国民に呼びかけた言葉ですが、その背景にはこういう事実があります。

 そして問題なのは、戦争がある毎に実質GDPも1人当たり実質GDPも伸びるのですが、戦争が終わるといつも低成長に向かって経済は停滞傾向を強め、中でも問題は、1人当たりGDPの伸び率はゼロを目指すことです。このことは、産業技術開発により工業が発展して生産性が伸びるということは、平時にはほとんど起こらないということを意味しています。

 1929年10月のニューヨークのウォール街の株価暴落に端を発した世界大恐慌の影響を、日本は高橋是清蔵相(1931年11月〜1936年2月在任)の果敢な財政政策によって小さくとどめた、というのが歴史学者や経済学者が誇りをもって説明するところです。確かに、5年間の平均伸び率の数値を見ると、世界大恐慌の影響は見事に消し去られているのですが、しかし同時に、今まで説明してきた1人当たりGDPがひたすらゼロに向かって落ち続けるという傾向には何らの変化も見られないのです(上のグラフを参照ください)。高橋蔵相の活躍は、景気対策の範疇にあったのであり、日本の産業振興に結び付く経済構造改革ではなかったということです。

 日本の経済学者が高橋是清を高く評価するのは、彼らが常に景気のみを問題とする人たちであり、産業振興に直接つながる経済構造改革を求める人達ではないからです。現代の経済学者の間での議論の的は、昭和恐慌脱却に最も効果があった政策は、財政拡大であるのか、つまり財政政策がより効果をもっていたのか、或いはマネタリーベース(通貨発行総額)の拡大であるのか、つまり金融政策がより効いたのか、と言うことにあるようですが、その何れが正しいのかと言うのは、それらの何れもが致命的な経済構造の欠陥を治癒〈ちゆ〉することに効果がないという限りにおいて、本質的に重要なことではない、というのが小塩丙九郎の考えです。

 産業技術開発が行われず、生産性が向上せず、1人当たりGDPが伸びないという脆弱な経済体制で、先進大国と張り合うための厖大な軍事予算支出を続けるために、結局軍官僚と経済官僚は、財政の国債依存を強め続けました(下のグラフを参照ください)。

出典:日本統計協会著『日本期統計総覧 第3、4巻』(1988年)掲載データを素に作成。

 そして高橋の最大の失敗は、国債を日本銀行に直接買い取らせるという禁じ手を使ったことです。その頃には日本は金本位制を放棄していたので、自己資産がまったくなくても、日本銀行はいくらでも通貨を発行できるようになっていました。それは何も根拠のない架空の資本を担保に自由に借金できるという魔法の方法で、それでは財政規律も何もあったものではありません。高橋蔵相の時代以降、次第に信用をなくした円は価値を失い続け、実体的経済成長がないにもかかわらず、それまでデフレ気味であった状態から一転して、物価は上がり続けました(上のグラフを参照ください)。これは成長に伴う良性のインフレではなく、貨幣の乱発がひき起こした悪性のインフレです。

 高橋自身は、その危険性を認めて景気回復ととともに国債を償還する腹積もりであったと経済学者たちは説明するのですが、既に説明したように、日本経済は生産性拡大によって成長することはできない構造であったので、それはもともと容易なことではなかったのです。現代でも積み重なる国債を目にして“出口”がないと一部の経済学者は批判するのですが、産業構造改革を行わない限り、いつの時代にも赤字国債に出口はないのです。

 結局は、別の戦争を起こして軍事特需を発生させて、それで国中を臨戦態勢にして平時の経済議論を封殺してしまうという手しか残されていません。旧型の帝国主義が通用する時代であれば、日清戦争でそうであったように、戦争に勝って莫大な賠償金を獲得し、或いは広大で天然資源豊かな植民地を得てそこから得られる莫大な事業利益で過去の赤字国債を清算するということもできたでしょうが、この時代は旧型の帝国主義でやっていける時代ではなくなっていました(その詳しい説明はここ)。

 高橋是清蔵相暗殺(2・26事件)の翌年に、軍官僚は日中戦争を開始し、それに必要な軍事費を日銀の国債買い取りという手を再び使って調達するのですが、それは軍官僚の横暴ということではあるのですが、同時に高橋が引いた路線の上を走っただけということも言えます。

 高橋は、応急対策としての景気回復をやった職人官僚であって、日本の破綻に向かう社会・経済構造を修正してくれたわけではありません。日中戦争を始める以外に、日本が当面の経済破綻を逃れる道はありませんでした。そしてそれはもちろん、最終的に大経済破綻を僅かながらに先延ばしするだけの効果しかもたないものでもありました。

 高橋を誉め讃える経済学者たちが、現代では無限に赤字国債を発行し続けることを主張し、或いは支持し続け、政府官僚はそれに従っています。その先に“出口”がないことは、高橋の後、日本に何が起こったかを見れば、わかるはずなのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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