小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔3〕日本第2の経済大破綻への道

(5) 等しく貧しくなることを強要された労働者

 1930年代に入ると、軍官僚に主導される政府は、国全体の生産力の向上を越えた軍備拡大に走り、国の資源の労働者に対する配分割合を低くし始めたので、工場で余分に働いたからといって、その分だけ確実に賃金が増えて、生活水準が向上するというわけではありませんでした。厳しい環境の中で、職工たちを働かせるため、政府官僚はやがて報国殖産ということを言い始めます。国のため、天皇のために働くのは臣民たる国民としての義務だと言います。その代わり、職と食は確保してやると言います。その代わり、労働運動は控え、労働組合は解散しろと言います。そして、職場を自由に変わる自由はなしということにしろと言います。労働者の身分保証と自由を享受する権利が無理やり交換させられたのです。

 そうして働かされた日本の労働者の賃金は1931年以降急速に低下し、太平洋戦争が始められた1940年の労働者の実質賃金は、1人当たりGDPは1931年より18パーセント増えていたにもかかわらず、大幅に下がっています(下のグラフを参照ください)(1人当たりGDPには、総務庁統計局監修 日本統計協会著『日本長期統計総覧 第4巻』(1988年)に示された山田推計値、人口については統計局データを素に計算)。

労働者の賃金
出典: 総務庁統計局監修 日本統計協会著『日本長期統計総覧 第4巻』(1988年)の掲載データを素に作成

 賃金は保証されましたが、支払われる賃金の額は、扶養する家族人数、家族員の年齢構成によって決まり、世帯間の差は大幅に縮まったのですが、それは、それぞれの世帯がかろうじて生存し続けるに必要な最低水準においてある種の公平さがもたらされたということであり、一言で言えば、国民みんなが等しく貧しくされたのです。1936年と1945年の賃金を職種別に比べると、1936年には職種ごとに大きな賃金差があったのですが、1945年には1936年に賃金が最も低かった紡績工業の労働者の賃金に他の業種がすべて揃えられています(下のグラフを参照ください)。1936年にもっとも賃金が高かった金属工業の労働者の賃金は、1945年までに4割も下げられています。

労働者の賃金の変化
出典: 総務庁統計局監修 日本統計協会著『日本長期統計総覧 第4巻』(1988年)の掲載データを素に作成

 さらに、戦況が悪くなり、海外からの国内への輸送力が低下して、食料や生活必需品まで供給量が少なくなると、それらの物資は配給制となります。江戸時代以来80年ぶりに、食料を生産する農村部が都市部より豊かとなりました。

 戦争の進展とともに職工の中でも中核となっていた基幹工にまで召集令状が届くようになり、政府による身分の保証は生命の保証と同義ではないということに国民すべてが気付きました。軍人212万人、民間人100万人、合計312万人が死んでからようやく、太平洋戦争と日中戦争は終わりました。そして、この数の中には、日本人以外の厖大な数の中国人、朝鮮人などのアジア人、そして連合国軍兵士の死者の数は含まれていません。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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