小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔3〕日本第2の経済大破綻への道

(4) 経済学者たちは違った評価をしている

 それでは、日本の経済学者たちは、この時代をどのように評価しているのでしょうか? 経済学者の明治期から太平洋敗戦に至るまでの間の日本の経済構造のあり様については、大きく分けて2つの見方があります。そして、それは、2つの大きな立場の違いによっていると言っていいと思います。

 その第1は、明治政府が国家発展のカギを握ると考えた鍵鑰〈けんやく〉的産業、つまり、軍事産業(陸海軍工廠)、国策銀行(日本銀行・正金銀行)、郵便、電信・電話、に国のエネルギーを集中的に投ずることとして、その他の産業、鉱山、製糸・紡績、商船造船等を官営から民営に移して、既に勃興しつつあった民間産業のさらなる振興を図る政策の大転換を行ったというものです。この意見を代表するのが、高橋亀吉(1894―1977年)です。戦前、大政翼賛会の活動にも参加し、戦後には通商産業省の顧問も務めていますが、日本の民間エコノミストの草分けとも称せられます。明治維新以降、政府は民間産業の振興に努めてきたのであり、1930年代末以降の経済統制体制は、戦争を戦うための一時の体制変更であるという見方は、今でも近代経済学者たちの大勢を占めているように思えます。

 もう一方は、明治13年(1880年)の「工場払下慨則」の交付は、軍事的=鍵鑰的産業の重要な部分、例えば鉱山、造船等、については、「直接巨大財閥資本に対して廉価に払い下げることにより、農奴制的ブルジョアジー上層部との連携を確保し、もって全産業を、より多く柔軟性のある統制の下におこうとする」ことを目的とした施策であると理解します。講座派と呼ばれるマルクス経済学者たちのグループを代表する山田盛太郎(1897―1980年)らが、こう主張しています。山田は、戦後、東京大学の経済学部長を務めています。

 すこし、古い時代の人々を代表者として紹介しましたが、これほど明快に区分けできるほど経済学界も単純ではないでしょうが、しかし、この2つの意見、或いは態度は、現在でも経済学界での意見の2つのあり様を示していると考えても、間違いではないと思います。そして勿論、今日では、マルクス経済学者たちの旗色はすこぶる悪くなっています。しかし、既にこれまでの小塩丙九郎の議論を読んだ若い皆さんは、小塩丙九郎がその何れの派にも組していないことには気づいていることでしょう。そこで、以下に小塩丙九郎の明治維新以降、20世紀前半までの間の日本の産業発展についての基本的所見を明らかにしたいと思います。

 明治政府は、近代的国家、つまり富国強兵国家、の建設を進めるに当たり、「@枢要なる部分」(軍事産業、鉄道・通信産業、国策金融)については政府の直接経営によるものとしました。それを支える「A基幹的産業」、鉱山、造船、については、政府に直接繋がる大資本(=大財閥)に運営させ、実質的に支配することとし、「Bその他の民営産業」、紡績等繊維産業その他、については「同業組合準則」等によって、江戸時代の徳川幕藩体制期のやり方に準じた間接的産業統制体制をとるという三重の産業政策体系を築くこととし、そのように実施しました。

 この中で特徴的なこととして、基幹産業を支配する大会社が、資本が巨大であるにもかかわらず、その他の企業とは異なり、株主の数が少ない同族経営がなされる「財閥」であったということがあることは、指摘しておかなければなりません。第1次世界大戦期以降、財閥に属する企業の増資分の一部が公募されましたが、その対象は縁故者に限られていましたし、本社機構は合名或いは合資会社として、その閉鎖性を守り続けました。財閥資本が、純粋民間資本として、自由市場経済体制の下で経営されたことは、1度もありません。

  • 現代に至るも、日本には近代資本主義が発展してこなかったことを認める経済学者は、いない。

 それでは、官僚による経営・管理体制を一貫して強め続けた産業政策が、どのように国際政策に繋がっていくのか?、その観点の理解が重要です。しかしこの点について日本の経済学者の多くは詳しく語っていません。石井寛治は、『日本の産業革命−日清・日露戦争から考える』(1997年)の中で、経済と政治の関係を詳しく語っていますが、これは例外の部類に属するものです。

 明治政府が、富国強兵策を推進し始めた時期に、欧米先進国は世界中のおおよその植民地化を終えていました。遅参のアメリカも、米西戦争に勝利することによって旧スペイン領であったフィリピンを植民地化していました。世界でわずかに残されていたのは、極東の中国、日本、朝鮮の三国だけでした。

 イギリスは、マカオと香港を99年租借し、さらには中国全土を窺い、ロシアは満州を簒奪〈さんだつ〉し始めていました。イギリスはさらに朝鮮の巨文島を一時占有しましたが、日本と朝鮮は基本的には手づかずであり、ロシアは満州から朝鮮半島に南下する機会を狙っていました。しかし、イギリス、アメリカの両国は、軍事的に中国と日本を占領することは難しいと判断し、中国と日本については、自国経済を発展させるために必要な広大な消費者市場についての優越的な権利、権益や優越的貿易関係を得ることとしました。つまり世界第1位と第2位の地位にある英米両国が世界政策の転換を行ったことにより、世界は、植民地獲得による帝国主義から、権益獲得による世界市場制覇を目的とする新型の帝国主義の時代に移行しつつあったのです。この世界政治構造の転換についての認識をもつことができたかどうかが、決定的に重要なことでした。

 しかし、自由で有力な資本家がいない皇帝や天皇による専制的政府をもつロシアと日本は、まだその世界の潮流によらず、植民地拡大に拘り続けていました。それら両国の幹部官僚たちは、英米の基本戦略転換に気付いていなかった可能性が高い、と小塩丙九郎は推測しています。そして、ロシア革命(1917年)が起こり、国力が停滞する中でロシアがアジアでの勢力拡大政策を放棄していくと、アジアでは、独り日本だけが植民地獲得をあきらめない旧型の帝国主義国家として残されることとなりました。

 イギリスやアメリカが、自国産業発展のために世界市場制覇を狙っていたのに対して、日本は、世界市場獲得の手段であるはずの他国の占領や支配が、それ自体国の政策目標になっていました。日本は、明治当初期、国の存在が欧米各列強、特に、イギリス、アメリカ、そして殊にロシアから脅かされており、自衛のための富国強兵策として出発したのですが、日清、日露の両戦争に勝利した後は、自衛目的が消え去ってしまいました。本来はその時点で欧米列強と同様に世界市場制覇を目的として非植民地主義的帝国主義に移行すべきであったのです。

 しかし市場統制策を拡大してきた日本には、近代資本主義に基づく勢力拡大を主張する勢力がなく、官僚、特に軍官僚につき従う大財閥等があっただけでしたので、軍官僚の位置づけを危うくする以上の政策大転換を行うことは誠に困難で、実際に行われませんでした。学者たちの多くは、政府官僚に追従し、或いはむしろさらに迎合して国民を煽〈あお〉ることまでしています(例えば七博士事件があります〈その説明はここ〉)。近代的な民意も民間勢力、政党や労働組合、も発展しませんでした。

 そうして、明治中期、20世紀初頭、に欧米列強と日本の政策の大きな、そして基本的な、「ずれ」(“gap”或いは“divergence”)、が発生したのですが、そのことに日本の指導者たちが気づいていたかは、誠に怪しいものです。殊に、自己存在を意義づけるために戦争を求め続けた軍官僚はそれに気づいていなかったでしょう。元海軍大佐であった水野広徳〈みずのひろのり〉が、独り例外でした(水野の考え方については、ここで詳しく説明しています)。

 商工業者は、自社の発展に懸命で、独立した世界観と国家観をもつには、軍官僚との距離が近過ぎました。そしてこの「ずれ」が修正されないままに、日本の国力が大きくなっていったことが、1945年の大破綻をもたらすことになりました。そして日本と同様、産業革命が遅れたために自国産業を発展し損ない、その上に植民地を獲得できなかったドイツとイタリアが、日本と同様の世界標準、つまり欧米先進列強の世界観、から外れた、いわば“はぐれ狼的世界観”をもったことにより、日本と同様に大破綻することとなります。それが、20世紀前半の歴史の大構造です。

 日本では経済と政治をそれぞれ半分独立した学問分野として扱うのが一般的で、それら双方をまとめて科学的に構造分析する著述がほとんど見られません。特に、政治歴史学者の中には、政治家個人やそのグループの観念や、その対立のあり様、そしてその勝ち負けが日本の歴史を形づくるのに決定的であったとするような主張を多くしています。そして、多くの経済学者は、政治的環境を経済の諸事象を説明する背景として捉える傾向があります。

 しかし、経済発展の構造が政治の変化を産み出し、それが翻って経済の変化のあり様を大きく規定するというように、両者の連環をきっちりと捉えないと、経済、政治、そのどちらの歴史も正しく捉えることはできないでしょう。経済学界の中での論争、或いは歴史学界の中での論争は盛んに行われているようですが、両学界を同時に巻き込んだ総合的経済・歴史学論争が行われている節〈ふし〉はありません。そしてその両学界が互いに接するようで接していないその両者の間のクレバスの深みの中に、最も大事な真理が落ち込んで、国民の目から隠されているのです。日本の学会の縦割りは、過去にも、そして現在でも、国の命取りとなっているのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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