小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔2〕官僚主導・民間癒着の管理市場ができた

(5) 江戸時代の複雑な貨幣制度

 前項までが、小塩丙九郎が考える田沼の経済政策の概略です。ところが近年、田沼は町の有力商業者と癒着して賄賂を得た悪徳官僚であるという伝統を覆〈くつがえ〉して、改革的な経済官僚として高く評価する論評が内外経済学者の間で多く出て、それがむしろ主流となっています。そのような議論が出るきっかけとなったは、既に示したアメリカ人歴史学者のジョン・ホールの書いた“Tanuma Okitsugu, 1719-1786, forerunner of modern Japan”(1955年)です。ちなみに、歴史学者たちが頻繁に引用するホールの著作ですが、なぜか今に至るも日本語訳が出版されておらず、とても限られた図書館にしか収蔵されていません。

 そこで、ホールの主張に基づく多くの日本の歴史学者の意次の評価が正当なものであるのかどうか、以下に検討してみたいと思います。歴史的には意味がないことと考えるのですが、意次の正しい評価を定着させるためには必要なことです。なお、小塩丙九郎を信用するのでさらに先に進みたいという若い皆さんは、この項以下を飛ばして、次(ここ)に進んでください。

 田沼意次の主な経済政策は、以下の4点にまとめられます。1つは、既に詳しく紹介した株仲間の強化であり、そこから冥加・運上金を徴収することにより幕府財政を大いに改善することを企てました。そして2つは、通貨の一元化を図り、金・銀・銭(銅貨)の交換比率を固定化し、流通の円滑化を図ったことであり、そして3つは、蝦夷地と印旛沼の大規模開発を図ったことであり、4つは貿易収支を改善しようとしたことです。以下、後の3点についての説明を加えたいと思います。

 意次は、大胆な貨幣政策を実行しています。意次に好意的なホールを含む学者たちは、意次は幕府経済に近代的な貨幣制度をもちこもうとしたと評価しています。そう主張する根拠の一つは、それまでの秤量〈ひょうりょう〉 通貨を計数通貨に変えようとしたということです。秤量通貨とは、硬貨1枚1枚の重さを測って、つまり含まれている金や銀の重みによって貨幣の価値が決まるというものです。一方、計数貨幣とは、硬貨の1枚の価値は定められており、一々秤〈はかり〉でその重さを測らなくても貨幣の価値がわかるというものです。

 もう一つは、金貨と銀貨の交換比率を一定に定めたということです。そうすれば、金や銀の市場相場がどうであるかを気にすることはなく、金貨と銀貨を簡単に交換することができ、これままた取引の手間を随分と省くことになります。

 ただ問題は、一見合理的近代化に見える意次の貨幣政策がそのような目的で計画され、そして実際に通貨制度は近代化に向かったのか、ということです。そのことについて、小塩丙九郎は積極的な評価ができません。むしろ意次の意図は、まったく別のところにあり、実際に貨幣制度が合理化されることはなかったと考えています。

 この説明を続けるためには、先ず若い皆さんに江戸時代の貨幣制度の大まかなところを理解してもらわなければなりません。というのは、江戸時代の貨幣制度は、今では考えられないほどとても複雑であったからです。

江戸時代の通貨制度
  • 金貨、銀貨、銭(ぜに;銅貨)の3種の貨幣より成る。

  • 互いの交換比率は固定されていない流動市場制。

 江戸時代の貨幣は3貨制度であったと言われています。通貨が、金貨、銀貨、そしてそれらの補助硬貨である銭〈ぜに;銅貨〉の3種類で構成されていたからです。そして、江戸では金貨が、そして大坂と京では銀貨が最も基準となる貨幣として扱われていました。1つの国の中に、違った通貨制度を持った経済圏が並立していたということです。西日本で銀貨が主に使われたのは、中国の主要通貨が銀貨であり、さらに銀鉱山が比較的多かったこと、そして江戸で金貨が主に使われたのは、西日本ほど中国との交易が盛んでなく、金鉱山の方が多かったということが理由だ、と一般には考えられています。

 幕府は、天領から徴収した米を大坂で売り、その販売代金を江戸に送り、一方大坂で仕入れた様々な商品の買い付け代金を江戸から大坂に送ります。この煩瑣で、現金を運んでいては危険な貨幣を交換するサービスを提供していたのが両替商です。両替商とは、元来様々な貨幣を客の必要に応じて必要な種類の通貨に交換するのが業でしたが、それが発展して、2都の間の貨幣交換を、実際に現金を運搬しないで、江戸⇔大坂間で同額の交換があった時には、それを帳面上で幕府とやり取りして済ますこととしました。

江戸時代の金融大資本が活躍する金融市場
  • 幕府は米などの年貢を江戸で金貨に替え、さらに京や大坂に送って銀貨に替えて絹織物などの商品を買って江戸に送る。

  • その仲立ちをするのが三井等の金融大資本。平安時代よりずっと、中央政府と金融大資本がもたれ合うのは日本の伝統。

 三井や鴻池などの豪商は、その豊かな資本を背景として幕府からの信用を得て、その貨幣流通業務を幕府から委任されて行っていました。先ず、金を基準とする江戸と銀を基準とする大坂の間の通貨交換を円滑に行うには、金銀の交換比率が定まってなければなりません。その金銀交換比率は、毎日の取引相場で定められていました。金銀それぞれの価値は、市場にある金や銀の量が変われば違ってくるからです。今日、円ドル為替相場が毎日変動して定められていると同じ理屈です。つまり、金銀交換比率は変動制であって、固定されてはいませんでした。

 幕府開闢〈かいびゃく〉時の金貨は慶長小判です(その実物写真はここ)。重さは17.85グラムで、品位と呼ばれる金の含有率は84.29パーセントの品質の良い金貨でした。これが、ずっと使われ続けられれば、市場は複雑にならなくて済むのですが、しかし、問題が2つあります。信用されて流通が頻繁になれば、損耗します。欠けたり、刻印が見えなくなってきたりします。もう一つは、金の生産高が十分に増えなければ、全国の経済が成長して商品の流通量が増えても、それに必要なだけ余分の金貨を発行できません。経済規模が大きくなったのに、貨幣流通量を拡大しなければデフレになってしますし、それは経済を減退させてしまいます。

 そこで、幕府は金貨を改鋳して、品位を下げて、つまり金の含有率を低くして、より多くの金貨(小判)を発行します。多過ぎればインフレになりますが、適度の発行量の増大であれば、経済はうまく回転します。ただ、金貨のすべてを一挙に交換できないので、含有率の高い小判と低い小判では、1両と刻印してあったとしても、利用者にとっては価値が違います。つまり、新旧金貨の交換比率は1にできないのです。無理やりにそうさせようとすれば、旧い品位の高い慶長小判などの通貨は退蔵され、市中の流通貨幣量は期待したほどに増えません。

 だから、新しい品位の低い金貨を発行した時には、旧い1両小判にプレミアムを付けて余分の銀貨などを足して交換してやります。これを、増歩〈ましぶ〉と呼びます。こうすれば、新旧通貨の交換は円滑に進み、市中の流通通貨量は増えて、デフレにも過度のインフレにもならずに、経済が円滑に回転するはずです。

 一方、銀貨には貨幣価値の刻印が打たれていません(その実物写真はここ)。銀貨の値打ちは先ずは、その重みを測って決めます。そして、銀貨にも新旧のものが同時に流通していれば品位は違うので、その重みだけでは十分でなく、銀貨の種類と重さが分かって初めて銀貨の価値が確定することになります。

 そして同じ重さの純金と純銀との価値は5対1がおおおその基準とされていました。おおよその基準とは、金と銀との価値はその貴金属としての希少の程度によって定まっているので、金や銀の産出割合が違って、金銀の総量が変化し、その希少度の評価が変化してくれば、金銀の交換比率が違ってくるからです。そしてその適正交換比率は、先に挙げた両替市場で決定されました。これに少額の補助貨幣としての銭が加わるので、さらに厄介なことになります。そしてその分、両替商の働きが重要となるのです。

 その上にもう1つ難しい要素が加わります。出目〈でめ〉と言われるもののことです。既に紹介したように、品位の高い金貨からより低い金貨に交換するときには、その含有金の量に応じて、新小判の価値が低下した分を補うだけの増歩〈ましぶ〉を行うのが原則です。品位を3割下げれば、3割の増歩をしなくてはなりません。しかし、多くの場合は、幕府はそうはしませんでした。極端な場合には、品位を下げておきながら増歩を一切付けませんでした。すると幕府は回収した旧金貨を鋳つぶして3割多くの新金貨を発行できるので、その差は丸々幕府の収益となります。そして、この収益のことを出目と呼ぶのです。

 幕府は、例えば将軍の奢侈〈しゃし〉が度を過ぎるなどして財政がひっ迫すると、この出目を取ることを目的とした改鋳を何度も行っています。増歩をまったく行わないというのは、それほど多くありませんが、それでも品位低下に見合っただけの増歩をしないのが一般的です。やがて財政赤字が恒常化すると、幕府は、出目を多く見込まなければ、予算を組めなくなりました。例えば、1840年代にもなると、総歳入額に占める出目の割合は25パーセントから51パーセントもの高さになっており、維新直前(1964年)には70パーセントにも達しています。

徳川幕府の出目〈でめ〉は、

現代政府の返済する気のない赤字国債と同じ!

 幕府は、流通貨幣不足を理由とするのですが、実際には不足量以上の通貨が流通されることとなるので、インフレが発生します。そもそも、吉宗以降、日本経済、特に幕府の直轄領や幕府の支配が強く及んでいる東日本では、経済成長はしていません(その様子は後で詳しく説明します(ここ)。すると町民や農民たちの実質所得は減るので、実質経済には悪影響が出ます。言葉は悪いですが、幕府のやらずぼったくりということです。悪辣な将軍と財務官僚が組んだときには、世情より幕府の都合を優先しました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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