小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔1〕吉宗が官僚管理市場をつくった

(4) 吉宗の貨幣政策

 江戸に入った吉宗が第一に取り組んだ経済政策は、高騰する物価を下げることでした。吉宗が江戸に来る2年前の1714年に金貨の改鋳が行われ、金貨の品位(金の含有率)が大幅に向上されたため、流通する貨幣の総量が急減し、それは物価の基準となる米の価格を標準値の155銀匁〈もんめ〉/石(1713年)から125銀匁/石(1716年)にまで下げ(1匁=3.75グラム)、市場はデフレ気味にあったのですが(下のグラフを参照ください)、吉宗は金貨の改鋳のペースを一挙に高めて全金貨の改鋳を終えてしまったのです。

吉宗然後の米価
 出典:出典:岩崎勝著『近世日本物価史の研究』(1981年)掲載の大坂の米価データを素に作成。

 この吉宗の貨幣政策を献言したのは儒者であり6代将軍家宣〈いえのぶ〉と7代将軍家継〈いえつぐ〉の側用人(そばようにん;将軍の側近)であった新井白石です。白石は、1695年(元禄8年)と1710年(宝永7年)に勘定奉行(今でいえば財務大臣)荻原重秀が金・銀貨を改鋳して品位(金や銀の含有率)を下げて貨幣を大増発したことが物価高騰の原因であるとして、貨幣の質を元に戻すことによって物価を下げられると主張したのです。

吉宗然後の米価
 〔画像出典:Wikipedia File:Keicho-koban.jpg (慶長小判:著作権者 As6673)、File:Genroku-koban.jpg (宝永小判)、File:Yotsuho-chogin.jpg (四宝丁銀)、File:Shotokukoki-chogin.jpg (享保丁銀)〕

 結果は、てき面でした。物価の基準として理解されていた米価は、133銀匁/石(1718年)から42銀匁/石へと一気に3分の1に下がってしまいました。つまり市場は大デフレ状態に陥ってしまったのです。荻原は、1695年の金貨の改鋳では、品位を86パーセントから56パーセントへと落とし、流通貨幣量を1.5倍以上にしようとしました。しかし、荻原の目的は物価対策にあったのではなく、旧貨と新貨を取り換える際にその差益を幕府が独り占めすることにより幕府の臨時歳入を得ることでした。

 改鋳の結果、幕府は500万両の出目(でめ;改鋳差益)を得たと主張する者もいます。それでは幕府の年財政規模の数倍に及ぶのですが、その根拠を小塩丙九郎は確認できていません。500万両という数字が正しければ、幕府は数年間にわたって歳入総額の半分ほどを出目で補ったことになります。ただその程度であれば、幕末期の財政でも確認されるので、恐らくそうなのでしょう。いずれにしても、日本史の記述では数値が意味あるほどに詳しく紹介されることはまことに珍しいのです。これは、日本歴史学の欠点の一つです。

 荻原の貨幣改鋳の目的は幕府財政に臨時歳入を得ることでしたが、しかし、17世紀中に成長してきた経済の規模に応じるほどの貨幣流通量の増加は必要であったので、元禄の貨幣改鋳が行われた時期には、米価は70銀匁/石から100銀匁/石へと3割上昇していますが、1690年代末以降物価はそれ以上上がらず、17世紀全期にわたる経済成長を勘案すると、異常なほどに大きな貨幣流通量の拡大とは言えず、結果として適正な貨幣流通量拡大策であったと理解されます。


 ただ萩原は、悪乗りし過ぎました。元禄の改鋳は結果オーライだったのですが、1710年の宝永改鋳は米価を一気に150銀匁/石にまで高騰させてしまいました。この水準は、17世紀中の経済成長を前提としても高すぎます。白石が荻原の改鋳策を責めたとしても、間違っているとは言えないでしょう。しかし、荻原と同様に、白石にも経済規模と流通貨幣総量をシンクロさせるという意識が欠けていたように思えます。低くし過ぎた貨幣の品位を上げるというところまでは正しいのですが、その程度とスピードが大きすぎたのです。

 白石の献言に基づき新造貨幣の品位が上がられ米価は緩やかな下降を始めていたのですが、吉宗がそのスピードを一挙に速めたために、1718年には133銀匁/石であった米価は、翌1719年には42銀匁/石まで暴落しました。市場は大デフレ状態に陥ったわけです。物価の高騰は収まりましたが、幕府の歳入も3分の1に収縮してしまいました。ただ吉宗は、米価とともに諸物価も下がればそれでいいと考えていたことでしょう。農本主義者である吉宗が、町の消費市場経済に大きな関心をもっていた気配はありません。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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