小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済



〔1〕吉宗が官僚管理市場をつくった

(5) 吉宗の増税策

 しかし、それだけでは財政の赤字体質は治らないので、吉宗は紀州藩で成功した米増産政策を実施しました。故郷から治水工事の専門家(伊沢弥惣兵衛為永)を呼び、印旛沼など工事が難しいために残されていた湿地や沼の開発をして米作量を増やしたのです(菊池利夫著『新田開発』〈1963年〉による)。しかし貨幣流通量を減らした上に米の供給量を無理やり増やしたのですから、デフレ状態に陥った市場は一向に改善されませんでした。

 吉宗は幕府財政の歳入を増やすために、大幅な増税を強行しました。それまでの“四公六民”を改め“五公五民”にしたのです。農民にとっては所得税率が40パーセントから50パーセントへと10パーセントポイントも上げられたことを意味します。これについて、吉宗が大きく悩んだ風はありません。自身一日ニ食を徹底する倹約家であった吉宗は、農民の生活も元禄時代を経て緩んできていると考えていたことでしょう。

 しかし、16世紀の戦国期を何とか生き延びて、ようやく平和と生活のゆとりを享受しつつあった農民にしてみれば、とても受け入れられる政策ではありませんでした。吉宗が将軍になって以来、それまで10年間でおよそ100件程度であった百姓一揆等(村方騒擾を含む。村方騒擾とは村落内部同士の争いのこと)は、およそ3.5倍にまで急増しています(下のグラフを参照ください)。農民にとって、吉宗は極悪将軍であったということです。

都市騒擾と百姓一揆等
 出典: 青木虹二著『百姓一揆総合年表』(1971年)掲載データを素に作成。

 この百姓一揆の頻発に、結局幕府は耐えられませんでした。“五公五民”という公称の税率はそのままにして、農業生産高の補足率を下げたのです。或いは耕地面積の測定面積を加減し、或いは耕地ごとに定める課税標準収穫高を以前より低く見積もったりしました。そして実効税率を“四公六民”であった時代の3割の水準に下げ、それでようやく一揆の件数は元の水準に戻りました。つまり、吉宗の米価対策も農業政策も、思い通りにはまったく運ばなかったということです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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