小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔1〕吉宗が官僚管理市場をつくった

(6) 官僚による市場管理の始まり

 幕府財政が困窮する中で、吉宗は、家臣にも江戸町民にも大倹約を強要しました。華美な服装は着るな、3度の食事を2度に減らせというのです。好色本は発行するな、新説を著してもならぬ。当然消費者市場は、冷えました。

 吉宗に、悪意はなかったと思います。ただ、地方出身の吉宗は、自由市場というものを理解してはいませんでした。京や大坂から遠く離れた江戸に生まれ育った幕府官僚たちも、同様でした。江戸は、百万(正確な数は、よくわかりません)の人口をもつ“壮大な田舎”であったのです。人口の約半数は、武士であり、その過半は数年間だけ江戸に単身赴任する諸藩の官僚とその家来たちでした。

 商都の大坂にも幕府官僚は数年間駐在しましたが、実務を取り仕切っていたのは現地採用の下級官僚たちでした。大坂勤務を命じられた幕府の幹部官僚は、どうしたら江戸の幹部官僚に喜んでもらえるかということだけを考え、年季を積んで江戸帰参の時を待ったのです。ちなみにこの幕府官僚の体質は、後年大坂で大塩平八郎の乱(1837年)という重大事件を引き起こすことになります(その説明はここ)。


 江戸は、現代でいえば巨大なワシントンD.C.のようなものだといっても、それほど的外れではないでしょう。ワシントン生まれ、ワシントン育ちの財務省官僚に、連邦政府の経済運営を任せたいと思うアメリカ人も少なかろうと思うのですが、江戸時代にはそのようなことが起こっていたのです。

 農民や町民に大倹約を強いた上で、吉宗は最悪の市場規制を開始しました。家臣や江戸町民の贅沢を防ぐため、彼らに購買意欲を起こさせるような新商品の開発と販売を禁止したのです(1720年)。そして業種毎に商工業者に組合(株仲間)をつくらせ(1721年)、商工業者の新規参入を厳しく規制したのです。その目的は株仲間を通じて価格統制を行うことでした。

 例えば、1724年に京で米、塩、肴〈さかな〉、青物、醤油、味噌、酢などの食品、さらには炭、薪、紙、薬種、ろう、材木、竹などの生活必需品、真綿、繰綿、、布類、木綿類、晒〈さらし〉、かせ糸、諸反物類、絹納類、唐糸、和糸など多数の商品について価格を統制した記録が残されています(松本四朗著『商品流通の発展と流通機構の再編成』〈『日本経済史大系』《1965年》収蔵〉による)。もちろん、江戸でもほぼ似た状況です。

 このような細かくて厳しい市場統制があっては、ベンチャーの起業はできなくなりました。実際、17世紀中に生まれた鴻池、三井、住友に匹敵するベンチャーは吉宗の時代以降まったく現れていません。

 吉宗は、信長・秀吉以来、徳川幕府自身も受け継いできた楽市楽座の制度、つまり自由市場経済体制、を完全に否定してしまったのです。以降、徳川幕府政権の下で、京、大坂、江戸3都の経済は発展を止めました。これら当時の日本最大の3つの都市は、すべて幕府の直轄地内にあったからです。さらに外国との貿易は幕府直轄地である長崎のみを国際港として、幕府が独占経営していましたから、大都市経済と貿易のすべての商業・流通活動から自由が奪われたということになります。


 その上で、吉宗がどんなに大声を上げても、幕府官僚の浪費体質は改まることはありませんでした。そして、一旦吉宗がバランスさせた徳川幕府の財政でしたが、経済が成長せず、実効税率(年貢率)が元の3割に下がるにつれて、やがて以前どおりの赤字体質に戻りました。

 吉宗が行った経済政策で、一つだけよい結果を残したものがあります。それは貿易バランスの改善に大きく貢献したことです。17世紀中の幕府の貿易収支を支えていたものは、多量に産出される銀と銅でした。しかし銀は17世紀中にほとんど枯渇し、代わりに銅を増産しましたが、それも1700年頃をピークに急激に産出高が減りました(グラフはここ)。そこで銀を売って白糸(高級絹糸)、茶、朝鮮人参(高級薬剤)を中国や朝鮮から輸入するという貿易の仕組みが維持できなくなったのです。

 それでも、高級官僚や京の貴族たちの贅沢癖は治らないので、貿易収支は悪化する一方でした。そこで吉宗は、それらの産品の国産化に努め、それに成功しました。さらに絹糸と茶は後年逆輸出されるほどの有力輸出商品にまで育ち、その結果貿易収支は黒字にまではならないまでも、おおいに改善されました。ちなみに、茶は明治期前半期まで、そして絹糸は昭和前半期まで、近代日本の最有力輸出商品であり続けました(グラフはここ)。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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