小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済



〔1〕吉宗が官僚管理市場をつくった

(2) 幕府財政が急激に悪化した

 江戸時代初期、17世紀中、に全国で大耕地開発が進んだのですが、しかし18世紀に入ると、全国でもはや時の土木技術で干拓できる湿地や沼地はなくなってしまいました。諸藩より早く関東平野の干拓に取り組んだ徳川幕府は、諸藩より早くその限界に達し、17世紀初頭には財政が赤字に陥ってしまいました。

 米年貢歳入の伸びがなくなったのと同時期に、東アジアの国際通貨として使われていた日本の銀の産出額が急速に減ってしまったことも大きく影響しました。戦国時代の日本の銀産出量は世界の総生産高の3分の1を占めるほどであり(正確な統計値は見出せませんが、年100トン程度であったようです)、江戸時代初期の慶長年間にもまだその産出量は多かったのですが、急速に減少して、17世紀中にはほぼ枯渇したと言っていい状態になってしまったようです(日本最大の銀山の産出高の記録では、17世紀半ば過ぎの1673年には年1.3トン、18世紀初頭の1716年には年0.67トン、そして19世紀初頭の1830年には0.03トンと記録されています)。

 日本の銀は輸出資源として貿易収支の維持に貢献していたのですが、17世紀後半以降、日本は貿易赤字に陥ってしまいます。そして貿易を独占していた幕府の貿易による歳入は激減しました。

 そのため、銅を増産してその不足を補おうとしたのですが、その銅も18世紀初頭の年およそ3,000トン(日本を代表する足尾と別子の2鉱山の合計値)をピークに、急激に減り、18世紀後半には年500トン程度(同)の低い生産水準に陥ってしまいました(下のグラフを参照ください)。幕府は全国の金・銀・銅鉱山をほぼ独占して、それらの産出金属を素に大きな歳入を得ていたのですが、17世紀から18世紀に入る頃には、その歳入が急減し始めたのです。

銅の生産高
 出典:独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構著『銅ビジネスの歴史』(2006年 )掲載データを素に作成。

 このようにして18世紀に入る頃には、米年貢による歳入が増えなくなった上に貿易収入が激減したことが、幕府財政を直撃したのです。江戸時代初期、17世紀中、の毎年の歳入拡大に慣れていた将軍や幕府官僚は、歳入の伸びがなくなり、或いは減っても、毎年歳出を増やすという慣習から抜け出られなくなっていました。

 財政を計画的に管理しようとしても、この当時、そもそも幕府官僚には予算・決算という概念も慣習もありませんでした。財政が悪化し始めていることは、蔵にある金・銀貨が減り始めていることなどからわかるのですが、実際にどれほどの額の赤字なのかは分からないのです。

 徳川家に仕える武士たちは、17世紀初頭には既に武道ではなく行政官としての才能がより評価される官僚に変質していたのですが(詳しくはここ)、経済官僚としての知識や技能は獲得してはいませんでした。そしてこの幕府官僚の体質は、後に倒幕を成功させる西南日本雄藩の官僚のものとは違い、幕末まで大きく変わることはありませんでした。
 

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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