小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


この章のポイント
  1. 徳川幕府開闢から100年経った18世紀初頭に農地の大開発は終わり、経済は成長しなくなり、人口も増えなくなった。

  2. 17世紀中に銀は枯渇し、世紀の変わり目をピークに銅も大減産し、貿易収入は激減した。

  3. 紀州藩財政立て直しの功績がある吉宗が呼ばれて第8代将軍に就いた。

  4. 吉宗は倹約と米の増産を命じたが、何れもよい結果は産まなかった。

  5. 吉宗は、農民には増税を命じ、商人には自由な活動を禁止して価格の抑制を命じ、信長・秀吉以来の楽市制度を停止した。このとき(享保の改革)より官僚による市場管理が始まった。

  6. 吉宗は、同業者組合である株仲間の構成を商工業者に命じ、新商品の開発・販売は禁止した。経済成長は止まり、ベンチャーは生まれなくなった。

  7. 吉宗は、貿易収支を改善するため、生糸、茶、朝鮮人参の国産化に努め、生糸と茶は20世紀前半に至るまでの日本の主力輸出品となった。

  8. 幕府財政は一時は黒字に戻ったが、百姓一揆が頻発して実効税率が元に戻されるとともに、赤字体質に戻った。

  9. 田沼意次は、米年貢による増収が図れないため、商工業者から税を徴収することを考えた。

  10. 吉宗がつくった株仲間をカルテル組織に改竄〈かいざん〉し、商工業者の談合と高値設定を許し、高収益の中から幕府へ税を納付させた。

  11. 市場の自由は奪われたままで、経済成長は止まったままだった。

  12. 現代に続く、官僚と有力商工業者の癒着による市場管理体制が構築された。

  13. 近年意次を近代日本の先駆者として評価する経済学者が多いが、この理解は事実誤認に基づく不適切なものである。


〔1〕吉宗が官僚管理市場をつくった

(1) 経済成長に急ブレーキがかかった

 徳川家が江戸に幕府を開いて(1603年)以来、徳川を初め全国の大名は家康の後を追うようにして、猛烈な勢いで沼地や湿地の干拓を進めました。江戸時代前期の様子を書いた章(ここ)の中で詳しく説明したように、紀元前6000年頃の縄文海進期から、地球気温が下がって海岸線が沖に、例えば江戸湾では50キロメートルほども、後退した後に残された厖大な数と広さの沼や湿地(地図はここ)を埋め立てて、水田を開発したのです。

 歴史経済学者や人口学者の推計によると、1600年におよそ207万町(1町はおよそ1ヘクタール)であった農地面積は、1720年には288万町へと38パーセント増えています。そしてその間、人口はおよそ1,200万人から3,128万人へと2.3倍にも増えています(下のグラフを参照ください)。以下、少し技術的な説明になります。興味のない皆さんは、最後の結論だけ(ここ)を読んでください。

17世紀からの人口と王地面積
 出典:速水融・宮本又郎著『概説 17−18世紀』(岩波書店『日本経済史 1』〈1988年〉収蔵)掲載データを素に作成。統計値のない中間年は伸び率一定と仮定して補足した

 どうして人口の伸びが農地面積の伸びよりこんなに大きいのかは、歴史経済学者たちの書いたものを読んでもよくわかりません。そもそも、統計値そのものの信頼度も低いのですが(1600年の人口は、1,200万人ではなくて、1,500万人だという強い主張もあります)、もっとも確からしく思えることは、その間、畿内(きない;京、大坂を中心とした地域)その他先進地域の農耕技術が全国に伝播し、治水施設も整備されて洪水被害も減り、結果、単位農地面積当たりの収量が増えたということでしょう。

 18世紀半ばには、1人当たり農地面積はおよそ1反となり、以降安定しています。これは、1反の水田で1石の米を生産し、1石の米は1人を養うという常識に合っています。ただ実際には、幕府や諸藩は十分に農地面積を把握していませんでしたし、時代が下がるにつれて農地では米以外の換金作物を多く生産するようになっていて、その生産量をうまく米の石高に換算できたかということもあります。ちなみに、農地面積を幕府や諸藩が正確に把握できない理由の一つは、公称の税率(年貢率)が高過ぎて農民一揆が起こって治められなくなると、面積を過小評価して実効税率を下げるといったことがしばしば行われたことです。

 こういったディテールの精度をはっきりとさせて、その上で時代変化を大胆明快なシナリオで著すというようなことは、日本の学者は不得意です。データはたくさん提供されるのですが、それらの数値が必ずしも互いに整合しておらず、小塩丙九郎のような専門家でない者には雲をつかむような捕え所のない意識をもたされるようなことになります。

 ともかくここで知っておくべきことは明快、単純です。17世紀初めから18世紀に入る辺りまでは、農地面積はおおいに増えた。そして農業生産の大拡大により経済が成長し、人口も倍になるほどに増えた、しかし、その勢いは18世紀に入ってすぐにまったく失われてしまったということです。

 途中の難しくて面白くない説明を敢てしたのは、最後の結論部分だけ言うと、直ちに学者とか専門家という肩書をもった人たちから、その程度の知識で語るから、素人には議論させておかれないのだという批判が直ぐに出てきそうに感じたからです。途中退屈した若い皆さんには、その点謝っておきたいと思います。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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