小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

3. 信長・秀吉の自由経済策とその限界


この章のポイント
  1. 地球の小氷期の到来が日本を戦国時代に追い込んだ。治水技術に長けた戦国大名が勝ち残った。

  2. 信長の革新的富国経済政策が強兵を産んだ。信長の重視したのは、市場を自由にすることであった。

  3. 信長の比叡山焼き討ちの最大の目的は既得権益をもった大金融資本を市場から排除することだった。

  4. 秀吉は信長の残した市場自由化についての課題を成し遂げ、江戸時代に繋がる石高制を確立した。

  5. 信長と秀吉の泉州堺つぶしは、日本の近代資本主義社会への移行の道を断った。


(1)日本史上初めての経済後退

 6000年前、地球は今より数度暖かでした。南北極地の氷の多くは溶けて、例えば当時の関東平野の海岸線は、今の東京湾の奥よりさらに50キロメートルほど入り込んで、現在の埼玉県久喜市栗橋辺りにありました(下の図を参照ください)。だからこの時期は、地球環境学者に縄文海進期と呼ばれています。その頃、平野は広くなく、今の丘陵地の縁の辺りに住んでいた縄文人は、当時の海岸線で貝や魚を獲っていました。その縄文人たちが残した貝塚跡の位置をつなげて、6000年前の海岸線を描くことができました。

中世日本地図
説明: 最も暗い部分=当時の海面、薄墨色部分=縄文海進期の海水面(当時の沼・湿地)、白に近い部分=縄文海進期の陸地(当時の乾地)
出典: 通常海岸線に立地する貝塚の跡(図面上で小さな黒丸点で示されている)の調査結果を素に東木龍七〈とうきりゅうしち〉が作成した図(1926年)
画像出典:Wikipedia File:Touki Ryushichi 1926a 21.png)に小塩丙九郎がいくつかの表現上の修正を加え、また情報を書き加えた。

 その後地球は寒冷化し、海岸線は沖に遠のきました。その後に広大な湿地と沼地が残されたのですが、その一部は乾いた沖積平野となりました。そこで、稲作が始められ、とてもゆったりとした速さでではありましたが、収穫高が増え、それに伴って人口が増えました。そしてその分、経済規模が大きくなりました。

 そうして平安時代に入ってしばらく経った紀元900年頃には、日本の人口はおよそ640万人にまでなりましたた(鬼頭宏著『人口でみる日本史−縄文時代から近未来社会まで−』〈2007年〉掲載データに基づく)。しかし、それ以降人口は伸びなくなり、つまり経済は停滞し、12世紀後半から人口はむしろ減り始めました(下のグラフを参照ください)。

日本の人口

出典:日本の人口については、鬼頭宏著『人口でみる日本史−縄文時代から近未来社会まで−』(2007年)掲載データを素に作成。 イングランドの人口については、出典:E.A.Wrigley著“Population and History”(1981年)掲載図をベースに作成。
気温偏差については、上記著書に掲載されて日本の気温偏差の推移についてのグラフから、その形状をコピーして掲載(ノースケールとした)。原データは、吉田正敏・吉田喜憲編『文明と環境6 歴史と気候』による。これは、他の多くの地球環境学者による推計値と、基本的に違っていない。

 人口学者の鬼頭宏は、渡来民の流入が減ったこと、或いは伝染病の流行も原因に挙げています。しかしさらに、そのような問題を打ち消すほどに人口を増加させるほどの農業生産を向上させる力が働かなかったということが重要です。なぜなら、同じ時期のユーラシア大陸の反対側のさらに西側に浮かぶ島国では、まったく違ったことが起こっていたからです。

 日本の人口が減少しつつあった同じ時期、イングランド(当時はまだイギリスという国はありませんでした)の人口は急速に増えていました(上のグラフに黒破線で表示しています)。当時のヨーロッパでは、フランスの歴史学者であるジャン・ギャンペルが“中世の産業革命”と呼ぶ技術革新が起こっており(ジャン・ギャンペル著『中世の産業革命』〈日本語訳1978年、原典1977年〉より)、鉄の大量生産が始まり、馬に鉄片を付けた犂〈すき〉を引かせて大農地開発が行われていました。

 さらには、三甫式農法(農園を三つに分け、冬穀→春穀→休耕と1年毎に順を追って交代していく農法)という新しい耕作技術が開発されて、農地面積が拡大した上に農業生産性も上がったので、小麦などの穀物の大増産が可能となり、人口が急速に増えたのです。イングランドでは、12世紀初頭におよそ100万人であった人口が、2世紀半後の黒死病(ペスト)が突然流行した1348年までの間に4倍になっていました。

 地球環境が中世温暖期と小氷期の中間に当たる比較的安定していた時期に、イングランドでは小麦など穀物の大増産があって人口が大幅に増えた、一方日本ではむしろ人口は減ったというように、イングランドと日本でまるで違った人口変動をしたという点が重要です。そしてそのことは、それほどイングランドを含むヨーロッパの産業・農業技術の革新が大きかったということを意味しています。当時イングランドはヨーロッパの中心ではなく、むしろ辺境でしたが、ヨーロッパのその時代の技術革新はその辺境をも覆うほど劇的な伝播力をもつほどであったということです。

 それでも、鎌倉時代が終わり室町時代にかかる頃、ようやく日本にも技術革新の成果が現れ始めます。冬に小麦などを裏作として栽培する二毛作が普及し始めて、単位当たり面積の穀高が増えました。特に、室町時代が始まる頃には、米の品種改良が進み、関東から東北地方の比較的寒冷な地域でも実る米が開発され、畿内中心であった二毛作が東方にも拡がったことが大きな効果を呼んでいます。二毛作を行うには、冬の間水田の水を抜くことができるように灌漑設備もより高度のものが必要でしたが、その技術も畿内から東方に伝播しました。

 しかしそれでも、2世紀ほどの前のイングランドでは2世紀半に人口が4倍に増えたのに対して、日本では2世紀半のうちに人口は2倍にしか増えませんでした。2世紀ほどずれてはいますが、中世の日本とヨーロッパでそれほどの違いが出たのは、この時期にイングランドでは耕作面積が大拡大したのに、日本では、朝廷と武家政権が反目し、また朝廷も武家も私的な荘園を経営をしたことから、大規模な農地開発は行えず、農地面積は増えなかったからです。

 それに対してヨーロッパでは水車の開発があり、それで動かす工場がたくさんできています。例えば、11世紀末のイングランドでは、人口140万人に対して5,624台の水車があったとの記録があります(ウィリアム1世イングランド国王の作成した『ドゥームズデイ・ブック』による)。人口およそ250人に1台、つまり1台の水車が50世帯を賄うほど稠密につくられて、製粉などに利用されていたことになりますが、これがさらに大規模化されて工場の鞴〈ふいご〉を動かし、鉄の大量生産がなされるようになりました。そしてそうしてつくられた鉄が馬の蹄鉄や犂〈すき〉に利用され、農地開発力が一気に増したのです(さらに詳しくはここ)。

 水車はその他、糸を撚〈よ〉る紡績工場や製紙工場に使われ、或いは水車の産む回転運動を垂直往復運動に変えて鉄を繰り返し打つ鍛造〈たんぞう〉工場に使われました。いわば中世のエネルギー革命があったわけです。日本はイングランドに比べて水資源量が大きく劣るということはないので、日本とイングランドの差は結局のところ、水利用技術の差であったと言えます。日本でも水車は普及していますが、それはせいぜい水田に水を供給する程度の能力をもつものに留まっていました。そしてこの日本の水利用技術の貧困さは、江戸時代が終わるまで変わることはありませんでした。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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