小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

3. 信長・秀吉の自由経済策とその限界



(2)地球環境の変化が招いた戦国時代

 ヨーロッパから2世紀遅れて、日本でも農耕技術の開発と普及が進んだ結果、人口は、16世紀に入る頃には1,000万人を突破するのですが、この頃、日本は地球規模の環境変化に襲われました。紀元1000年をピークとした中世温暖期が終わって、地球が寒冷化したのです。地球環境学者は、15世紀から18世紀まで続いた地球の気温が比較的低かった時代を小氷期(little ice age)と呼んでいます。小氷期は、当時はまだ進んだ農耕技術をもっていなかった農村を襲い、凶作が多発し、東北地方から北関東地域を中心として多くの地域が飢饉に陥りました。

小氷期の気温変化
説明;細かで複雑に変化する複数のグラフは、個々の地球環境学者がそれぞれに描いたもの。
出典:IPC(気候変動に関する政府間パネル)の第4次評価報告書の図を加筆修正して東京大学大学院理学研究科の研究グループ(宮原ひろ子・横山裕典・増田公明)が作成したもの(http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2008/14.html)。

 小氷期に入る前には、封建領主の軍団は武士のみによって構成された常備軍でした。しかし生き残りのため食料を巡って隣藩との戦闘が盛んになると、軍団の規模を大きくするために、農閑期に農民を足軽として徴収することが始まったのです。農民にとっても、自国の領主が弱くては、隣藩の軍団が自領に侵入してせっかく実った農作物を強奪し、さらには農民を捕えて自領に連れ帰り、或いは自国で奴隷として使い、或いは外国に売るということがよくありました(戦国時代に多くの日本人が奴隷に売られたというびっくりするような話は、例えば藤木久志著『雑兵たちの戦場−中世の傭兵と奴隷狩り』〈2005年〉に詳しく書かれています)。運が良ければ、人質として金品と引き換えに戻されることもありましたが、とにかく自領の領主が強くて戦闘に勝ってくれないのでは、農民も生き残れません。農民が足軽としての徴兵に応ずるのは、当然のことでした。

 封建領主たちは、必死に生き残りを図りました。米生産高の拡大を図って耕作地の干拓に努め、さらに洪水被害を防ぐために、懸命に治水工事を行いました。軍団の中心が農民を徴収して編成する足軽兵である以上、農民の食生活を安定できない封建領主は隣藩の封建領主とは戦えませんでしたし、軍団を強くする最も確実な方法は、農作量を増やして農民の数を増やすことでした。

 この頃、運悪く他領の軍団が自領に攻め入ってきた場合には、農民は食料と家財を抱えて近くの城に逃げ込みました。戦国時代の合戦とは、武士のみ同士のものではなく、いわば国同士の総力戦に変わっていました。ちなみに、農民を足軽に徴用するというのは、北条氏が始め、それが全国に普及したものです。

 以上、戦国時代の農民のあり様についての情報の多くは、黒田基樹著『百姓から見た戦国時代』(2006年)より得ています。これは歴史学者が専ら戦国大名同士の戦闘にのみ関心をもっている中で、まことに珍しい庶民の視点で歴史を見た著作です。他に江戸時代については、田中圭一著『百姓の江戸時代』(2000年)という名著がありますが、田中は新潟県の地方史家です。黒田は、早稲田大学卒業であり、歴史学会の主流をなす国立大学の研究者たちは庶民には関心を向けません。そして歴史小説家も歴史学会の波にのり、庶民のことにも経済のことにも、そして産業技術のことについてもほとんど無頓着です。こうして、支配者中心の観点をもった、決してバランスがいいとは思えない日本史がつくられてきました。

 本論に戻りますが、中でも治水に最も長けていたのは甲州甲斐の武田信玄で、その治水工法は甲州流として知られています。総合治水工事の一環として釜無川〈かまなしがわ〉に築いた堤防は信玄堤としてその名が今に残っています。堤防を石積みにしたり、堤防に木や竹を植えて強化したり、或いは水勢を弱める工夫(牛枠〈うしわく;牛の形に木枠を組み上げたもの〉や本堤と控え堤の二段構えとする霞堤〈乗越堤〉の開発などによる)としたりして洪水を防ぐ一方で、遊水地をつくって洪水の逃げ場を作ったりと、総合治水のための土木技術を開発しつつ駆使しています。

甲州流
〔画像出典:Wikipedia File:Outside of Shingen embankment.JPG〕

 甲州流以外にも各地には、関東流、美濃流、上方流、紀州流等々地域特性に応じて開発されたものがあります。そしてそれらの技術は九州では朝鮮の、そして東北地方ではヨーロッパの先進技術を採り入れたものが多いと伝わっています。封建領主の必死の生き残り競争は、独自に治水技術を開発し、或いは外来技術を導入するという治水についての技術革新を産んだのです。この封建領主たちの懸命の努力によって農耕地面積は増え、小氷期に入ったにもかかわらず、人口はおおいに増えました。

 そうして農作量は増えたのですが、不安定な気候には翻弄されて飢饉の頻発は止められず、封建領主たちは、領民の要求に応えるために、隣の領土に押し入り食料を強奪しました。例えば上杉謙信は、冬の間に北関東を侵略して食物を強奪しながら越冬して、雪が溶ける春になると獲物を抱えて帰領しました。

 こうした農民を食べさせる能力に欠ける領主は、或いは家来に放逐され、或いは暗殺されました。下剋上の戦国時代をもたらした遠因は、小氷期到来という地球環境の大変化であったのです。この時代に、封建領主たちが得た治水と耕地干拓技術は、その後の日本の経済発展に大いに貢献することとなります。戦時に技術が開発され、平時になるとその成果が民生用に活用されるという人類普遍の歴史の法則は、日本ではこのとき最も顕著に見られました。

2017年1月4日初アップ 2017年2月17日最新更新(小氷期の地球気温変化図の追加)
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