小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

3. 信長・秀吉の自由経済策とその限界



(3)信長の革新的富国強兵策(商人を集める)

 戦国時代がいつから始まったのか?ということについては定説はありません。最も有力な説は1467-77年に将軍足利義政の継嗣争いで細川勝元と山名持豊(宗全)を筆頭に全国の武士が京を中心に戦った応仁の乱を戦国時代の始まりとし、それに次ぎ有力な説は1493年に起こった将軍位をめぐる畠山政元が起こした乱を戦国時代の始まりとしています。いずれにしても、15世紀末の頃に戦国時代は始まりました。

 全国に割拠する大名たちが互いに領地の拡大を目指して争ったのですが、有力大名の力が拮抗して、天下は定まりませんでした。戦乱を起こす遠因となった小氷期も次第に勢いを増す一方で、農業生産は不安定さを増していきました。そうして中で、決定的に大きな働きをする武器が現れました。鉄砲、火縄銃、です。鉄砲伝来の様子については別のところ(ここ)で詳しく説明していますが、それは1542年または1543年に初めて種子島にやってきたようです。このとき既に、戦国時代に入ってから半世紀が過ぎていました。

 戦国時代の決着を鉄砲が付けたというのは、それまでの伝統的武器、槍、弓矢、刀、或いはそれらを装備した騎馬軍団に対して、足軽兵がもった鉄砲が圧倒的な力を発揮したからですが、鉄砲はそれまでの武器と違い自領で容易に生産できず、泉州堺や江州国友でつくられるものはとても高価であったので、財政力が強くない戦国大名は、それを大量に買い付けることができず、財政力の差がそのまま軍事力の大きな差を産み出しました。こういう時代環境の中で、織田信長の革新的経済政策が力を発揮します。

 それまでの戦国大名は、百姓から年貢をとっていましたが、自領の町で営業する商人から税は徴収できていませんでした。商人たちは無税であったのではなく、地子銭〈じしせん〉と呼ばれる屋敷(当時建物と土地は分離されてはいませんでした)に対する固定資産税と冥加金〈みょうがきん〉と呼ばれる売上税を払っていました。ただその納付先が戦国大名ではなく、有力寺社であったのです。元々商人たちは、寺社の境内に定期的に集まって市〈いち〉をたてたところから商人町に発展したので、商人を治めるのは領主ではなく有力寺社であるとされたのでしょう。それを信長は、地子銭はとらず、冥加金だけ払え、としたのです。但し、支払い相手は信長です。

安土城
安土城(下方に城下町が少し見える)
 〔画像出典:Wikipedia File:安土城.jpg〕

 信長は、占領地を増すと、そこに巨大な城と城下町をつくり、そこに多くの商人が集まるように図ったのです。商業機会を与えたのは寺社ではなく信長ですから、そこに集まる商人たちから税を徴収する権利をもつのは当然信長です。そして信長は、自らが築いた安土などの城下町に商人が喜んで移り住むように、他の寺社が治める町より税を安くしたというわけです。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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