小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

3. 信長・秀吉の自由経済策とその限界


(4)信長の革新的富国強兵策(政策体系)

 ところで、地子銭や冥加金の額が一体誰によってどのように計算されたのかということは、小塩丙九郎が読むことのできた資料の中には現れません。地子銭と冥加金という言葉が頻繁に現れるだけです。一般に、日本の歴史を書いた本や論文の中に、経済統計や経済数量が現れることは稀です。一方、イングランドについての歴史資料などを読んでいると、農地面積、生産量、住民人口等々データがよく現れて、時代の変化をデータの推移と併せて科学的に理解できます。しかし、日本の歴史でそうなっていることは稀です。そこで、従来の寺社が徴収していた地子銭と冥加金の合計額がいくらで、信長が徴収した税の総額がいくらであったのかは明確にわかりません。

 だからはっきりとわかることは、地子銭や冥加金という同じ文字を使っている以上、寺社が徴収した金額の大きさと信長が徴収した金額の大きさはおおよそ同じであろうと言うことと、だとすれば地子銭が信長によって廃止された上、商人たちにとっては意味ある程に大きな減税が信長によってもたらされたということだろう、という程度には推測してもいいかなと思います。

 歴史資料から散見される経済行為に関するその他一般の課税率から、冥加金は取引高の10パーセント程度であったのではないかと推測します。しかし年間取引総額は一体どのようにして織田家の家臣が把握できたのかは想像もできず、仮にそれが町名主からの申告に基づくものであるとすれば過少申告になることは目に見えていますので、業種ごとに屋敷(店)の間口の幅ごとに定額としていたかもしれません。この辺りのディテールがわからないので何とも歯がゆいのですが、とにかく信長は商人に対して大幅減税を行い、そして寺社からは商人からの徴税権を奪い取ったということです。

 信長が領地を拡大すると巨大な城を建てたのは、当時不明瞭であった年貢の支払い相手が誰であるのかを明確に農民に示すためであったと『織田信長のマネー革命』を書いた武田知弘は説明していますが、信長はそれと同時に城下の都市開発を行い、そこに大商業地を開発して、今でいう法人税の徴収を図ったということです。信長にとって築城は、軍事目的を超えた経済国家のインフラ整備でもあったということでしょう。その経済国家建設構想をもったことが、織田家を富裕にし、そのことが大量の鉄砲を備えた常備軍を養うことを可能にして、そうして天下布武〈てんかふぶ〉、つまり全国統一、に猛進できることとなりました。

 そして自領の城下の商業地の繁栄を図るため、自領内では陸上の関所を一切廃止して運送コストを下げ、業種ごとに商人たちが座〈ざ〉をつくることを禁止して、新規参入を自由にして、価格を談合で決めるカルテルも運営できなくしました。つまり自由市場をつくったのです。そしてこのことは、織田家が管轄する領土内での商工業を成長させ、織田家の財政を大いに潤すこととなりました。

 信長が徴税手段としてもう一つ重視したのは、重要港での関税収入です。陸上での関税収入を放棄した代わりに、伊勢湾の津島、大坂湾の堺、琵琶湖の大津という主要港の管理権を得て、そこで効率的に関税収入を得ました。商人からすれば、数キロおきに設けられている関所の通行料がいらなくなったのですから、限られた場所での関税徴収に応ずることに大きな不満をもつことはなかったでしょう。港での関税は、以前よりとられていたのですから。

 歴史学者の多くが、楽市楽座は信長が管轄した限られた地域のみで実現したに過ぎず、京の七口と呼ばれる京への入り口に設けられた朝廷が管轄する関所(三条口、丹波口、鞍馬口など)などは廃止できなかったので、楽市楽座の効果は大きくなかったと主張しています。一方、武田知弘は、一部地域であっても“価格破壊”が起こったことは京などにも波及し、信長の上洛(1568年)以降、京や奈良の座は急速に衰退したと主張しています。

 信長がそれまでの戦国大名と違ったのは、自由市場経済を実現することにこだわり、そうして成長した経済の果実を得て自らの財政力を高め、そうして強い軍を養って全国の覇権を追求したということです。この富国強兵策の構築方法を明治から昭和にかけての政府官僚が理解していれば、自国産業の発展を重視せずにひたすら軍備増強に走り、ついには大敗戦と大経済破綻を迎えるという不幸は避けられたはずだ、と小塩丙九郎は考えています。そしてそれは、現代日本への大きな教訓でもあるのです。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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