小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

3. 信長・秀吉の自由経済策とその限界


(5)信長の比叡山焼き討ちの意味

 信長は経済力を拡大するために、既存の大金融資本を倒すという手荒なことをやっています。平安時代以降の日本の大金融資本は、貴族や武家から得た多額の寄進を財源として資本を大蓄積した大寺院です。その筆頭が、天台宗比叡山延暦寺でした。

 大寺院が力をもった背景には、飛鳥時代に仏教が伝来して以来、戦国時代前までの時期の多くの日本人の強い仏教信仰があります。縄文から弥生時代にかけて、日本人は自然そのものが神であり、魂は人と生き物の間を順に行き交うと信じていました。そしてその神々を統率する最上位の神が天照大神(アマテラスオオミカミ)であり、その子孫が天皇であると朝廷が主張し、それを国家統治の原理としました。

 しかし飛鳥時代に日本に当時の世界宗教であった仏教が伝わり、日本は仏教と対抗するのではなく、仏教と神道を混合する道を選びました。日本の神々は、実は様々なホトケが化身として日本に現れた権現〈ごんげん〉であるというのです(このことを“神仏習合”といいます)。この“本地垂迹”説を定着する過程で、アマテラスオオミカミ(天照大神)は大日如来の垂迹(すいじゃく;仮の姿)であると位置づけられ、それまで辺境(日本)の地方神であった日本のカミガミを宇宙の根源神に再生する作業が行われたのです(平雅行著『6 神仏と中世文化』〈歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座 第4巻 中世社会の構造』〔2004年〕蔵〉より)。

 このとき以来、日本人にとって死ぬということが大きな関心事になりました。それまでは、死ねば現世に自分が生まれる前にそうだったように、自分の魂は何か別のものに入りこんで生き続け、いつかは再び人間となって戻ってくるかもしれない、そうなのであれば、ことさら死を恐れることもなかったのです。しかし仏教の教義では、そういうわけにはいかなくなりました。

 死後の世界には極楽と地獄の二つがある、仏を信じて祈れば、死後には遠い西方にある仏の国、西方浄土〈さいほうじょうど〉、に行けるけれども、生きているあいだに悪行をなし、或いは仏にきちんと祈らなければ死後に永遠の地獄に落ちる、そう僧侶たちは説教したのです。そして多くの人がそれを信じました。だとすれば、西方浄土に行く方法を教え、導いてくれる大寺院の僧侶たちに従う以外にはない、それが、大寺院の力の根源であり、朝廷が人民支配する正当性の根拠でもありました。

 そう信じる貴族は、大寺院に多額の寄進を行い、或いは家を継がない長男以外の男の多くが大寺院の僧侶となりました。そのことは大寺院の権力をさらに大きなものとしました。中世ヨーロッパでも、死後の安寧を願う貴族の多くは、修道院に寄進し、或いは身内を修道士として自分たちのための祈とうをさせました。仏教とキリスト教と帰依する宗教は違いますが、どこでも貴族のやることは似通っています。

最澄像
延暦寺開祖最澄(最澄像 一乗寺所蔵)
〔画像出典:Wikipedia File:Enryakuji1.jpg 〕

 こうして富と権力を得た延暦寺を筆頭とする大寺院は、全国に多くの荘園をもち、絹、酒、麹〈こうじ〉、油、織物といった主要商品を独占して販売してもいました。延暦寺はさらに、馬借(ばしゃく;運送業者〉を支配した上に琵琶湖に11カ所の関所を置くなど、物流産業にもその支配は及んでいました。さらには、その資本を活かした高利貸しを行っていましたが、金利は月利4から6パーセントという今から考えれば法外に高いものでした(以上武田知弘著『織田の分長野マネー革命』〈2011年〉より)。要するに大寺院は戦国時代の大資本であり、朝廷の権限と一体となって市場の自由を認めない既得権益大資本であったわけです。

比叡山焼き討ち
信長比叡山焼き討ちの図(絵本太閤記 二編巻六)
〔画像出典:Wikipedia File:Enryakuji1.jpg 〕

 市場を自由として経済成長を図る信長と、既得権益大資本である延暦寺等大寺院の利害は当然衝突しました。最初信長は、延暦寺から荘園を順次奪い取るといったほどであったのですが、それではらちが明かず、遂には延暦寺の本山がある比叡山の焼き討ち(1571年)に及んだという次第です。

 こうして、人民の心を支配し、さらには市場の自由を奪っていた朝廷権力と一体であった顕密〈けんみつ〉仏教の権力が取り去られました。ここで顕密仏教というのは、天台宗や高野山に本山を置く真言宗など、仏教伝来以来、朝廷権力と一体であった伝統的仏教のことを指し、この他に朝廷や武家の苛烈な支配に耐えかねた農民や商人たちが帰依した新興仏教、法華宗(後の日蓮宗)や一向宗(浄土真宗)など、があります。それらの働きについては別のところ(ここ)で説明します。

 信長の改革は、一つには経済改革であったのですが、もう一つには顕密仏教権威を否定する働きがあり、その後の日本の行く末を決める上でまことに重要な働きをしたということは、理解しておいた方がいいと思います。現代日本人の常識に反して、経済原理と宗教教義とは、常に互いに響き合う一体のものとして変遷し、現代に至っています。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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