小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

3. 信長・秀吉の自由経済策とその限界


(6)秀吉の全国経済構造改革

 信長は、自由市場をつくろうと懸命に努力したのですが、全国統一が成る前に本能寺に倒れたので、全国規模での楽市楽座制の普及、或いは関所の完全廃止など、経済構造改革が道半ばで終わってしまいました。そしてそれらの残された課題の多くが信長の政策を引き継いだ秀吉によって完成されました。

 第一には、楽市楽座制が完成しました。1584年、秀吉は関白に任ぜられます。家康に合戦で勝つことができなかった秀吉は征夷大将軍の位を得ることができなかった、と秀吉の関白就任を否定的に捉える人が多いのですが、経済構造改革を行う上では、極めて効果的な人事でした。関白とは、朝廷官僚の中での最高位ですから、朝廷貴族や顕密仏教寺院に対する法的な指揮権が生まれます。ただの関白であれば、その指揮権も無用のものとなりますが、実力で天下をとった秀吉ですからその指揮権を十分に発動することができました。

 関白に就任した翌年には、秀吉は楽座令を発布して、全国の座をすべて廃止します。これで3年前に行った京の七口を含む関所の廃止と併せて、全国規模での自由市場が生まれたことになります。信長が目指した自由市場をつくる経済構造改革がついに完成したということです。

 秀吉が行ったもう一つの重要な経済構造改革は、石高制を完成させたことです。石高制とは、農地からの年貢を田毎に基準生産高を計測して、それに一定の税率をかけたものを年貢、つまり税、として納めさせることとして、その徴税権を各大名に与え、その家来たちは大名から定められた量の米を給与としてもらうという仕組みです。それ以前には、年貢は石高制、つまり現物納付、から貫高制、つまり金納制、に変更されていましたので、秀吉は税制についての基本的改革を行ったことになります。

 このことは二つの大きな意味をもっていました。一つは、農地をすべて国有化したことです。石高制になって、各大名は土地の所有権を認められず、土地から生ずる収益を徴収する権利をもつ、つまり用益権のみをもつ、だけの者に変わりました(脇田修著『秀吉の経済感覚』〈1991年〉より)。これ以降、中央政権が大名を国内自由なところに移す、“移封”と言います、ことができるようになりました。だから家康は、小田原城陥落(1590年)のあと秀吉に駿府から関八州へ移るように命令されたのです。

大坂城下町人町
大坂城下の町人町
(豊臣期大阪図屏風〈オーストリア・エッゲンベルク城所蔵〉の一部)
〔画像出典:Wikipedia File:Osaka-zu byobu.jpg 〕

 都市に住む商人や職人についても同様です。商人は町にある一定の敷地を利用する権利があるのであって、その土地を所有しているわけではありません。だから大名にその土地を明け渡せと命令されれば、商人にはそれに抗する法的根拠はないということになります。地子銭(固定資産税)は要求されず、冥加金(法人税)だけの支払いだけを求められるという税制と、商人の土地に関わる権限はこれで整合しました。

 ただ一人、農民だけが土地の所有を認められました。戦国時代、さらには徳川時代の前半期に大規模な農地開発があって、それに参加した水呑み百姓、つまりそれまで庄屋に隷属していた零細農民、は、検地を経て土地を耕作する権利を得たのですが、それは大名の得た用益権でなく、堂々たる所有権であったというわけです。この仕組みは、そのまま徳川幕府に受け継がれました。ちなみに、中世ヨーロッパでは封建領主や貴族が土地を所有しており、農民や農場経営者はその借地権をもっていただけでしたので、日本の農民の得た権利は大きかったと言えます。

 秀吉が貫高制から石高制に変えたもう一つの目的は、米を食料としてだけでなく商品として評価したということです。農民から定められた量の米を受け取り、毎日価格が変わる米市場で上手に売れば、収入をさらに大きく膨らませることができます。一方農民は、自分の生産物を活かした商業活動を行うことは厳しく制限されることとなりました。これもまた、徳川幕府の農本主義の基礎となりました。

 しかし秀吉が農本主義者であったのかそうではなかったのかという点については、直ぐには判断できません。小田原城を陥落させ、北条氏を滅亡させて全国統一がなった直後に、秀吉は家康を関八州(関東地方)に移封しています。そのとき豊臣家の総石高が220万石であったのに対して、徳川家は133万石から239万石へと加増されています。徳川家は総石高で豊臣家をおよそ20万石上回ることとなり、そうすることによって家康に都から遠ざかるることを承知させたのですが、秀吉にはその他に金・銀山、及び京、大坂、堺、長崎といった大都市と大港湾の管轄権がありました。これらが産む富は、豊臣家と徳川家の総石高の差、つまり米年貢収入総額としてはおよそ10万石の差、を大きく超えるものであったと推定するのが合理的です。

 それでも、歴史資料に現れる金・銀山からの収入や関税収入が数十万石に達するということを示唆するものはなく、豊臣家といえどもその収入の大半は米年貢に依存したということであったようです。

秀吉は、
  • 国内商業市場の自由化は完成した。

    しかし、

  • 近世から近代へと向かう産業化の道筋は壊した。

 秀吉の時代に、朝鮮半島から伝わった木綿、それを染める藍〈あい〉、木綿を栽培する肥料とする魚肥〈ぎょひ〉、金で買ったので金肥〈きんぴ〉とも呼んでいます、菜種油、茶といった商品を生産し、あるいは流通する産業が大いに発展しています。しかしそれでも豊臣家の歳入がほとんど米の年貢に依存するというほどの産業規模しか持たなかったことになります。市場は自由化された、しかし世界的視野で見ると産業化は大きくは進展しなかった、それが秀吉の到達した経済構造でした。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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