小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

3. 信長・秀吉の自由経済策とその限界


(7)信長と秀吉の限界

 秀吉と信長の経済政策のことについて説明しながら、一つ触れてこなかったことがあります。それは、2人の泉州堺への向かい方です。別のところ(ここ)で詳しく紹介したように、同時代の泉州堺は当時の世界最先端の水準に届いていた可能性が高い、自由で世界的な規模での産業活動をしていました。しかし、先ずは信長が堺を隷属させ、次いで秀吉が堺の自由を完全に奪っています。その結果、日本が17世紀以降に世界規模での産業国家へと向かう道が断たれてしまいました。

 16世紀末から17世紀にかけて、イングランドでは封建領主に属する貴族の中から農地を資本主義的に経営しようとする意欲を強くもつ者が現れ、農民の中で富裕になった者に破産した零細農民から取り戻した借地を集約して貸し付けることによって、貴族(ジェントリ)と富裕な農民(ヨーマン)が互いに連携する大農地経営者として新たなブルジョワ階層を構成することとなり、それらがさらに様々な産業の事業主に育ち、17世紀中の2度にわたる市民革命(清教徒革命と名誉革命)を通じて立憲君主国体制とするなかで、近代資本主義体制を築いていくこととなりました(詳しくはここ)。同時期の日本では、泉州堺の豪商たちが同じ道を辿って、近代資本主義社会の資本家として育っていく可能性があったのですが、その道は信長と秀吉の二人によって断たれたということです。

信長も秀吉も、

中世の古い資本主義社会に留まった。

 信長と秀吉を自由経済体制を構築した革新的武家と評価しつつも、それは世界的視野で見れば、未だ中世的資本主義から脱しきれない未発達なものに留まっていたということも認めざるを得ないと思います。信長と秀吉の二人を農本主義者と呼ぶには少し違和感がありますが、しかしそうかと言って近代産業を志向していたとも言えないのです。そこに、中世末期の日本の限界がありました。

 戦国時代には、日本の貨幣制度はまことに混乱していました。各種の貨幣が混在して使用されるとともに、その中で米を貨幣として使うことも行われていました。信長と秀吉は、貨幣制度の整理に手はつけたのですが、結局のところ統一した貨幣制度を構築するまでには至りませんでした。

 古代、日本には飛鳥時代(708年)に初めて発行された和同開珎以来の国産貨幣の歴史がありますが、必ずしも順調に育たず、平安時代中期までの2世紀半の間に12種類の銅貨、皇朝十二銭と呼ばれています、が鋳造されて以降、新たな硬貨は発行されず、専ら宋から輸入された銅銭がそのまま国内で通用していました。しかし、明の時代になって中国の銅の産出高が減り、明の国際交易への姿勢が否定的になるに従って中国製の銅銭は次第に輸入されなくなり、国内では通貨不足が発生しました。それを補うために、豪族や堺などの豪商が発行する私鋳銭が普及し始めたのですが、品質はよくなく、貨幣市場は混乱の度合いを増すことになりました。

 信長は、私鋳銭の使用を促進して、流通市場の円滑さを維持しようとして撰銭令〈えりぜにれい〉を発布するのですが(1569年)、信長の全国統一が完成しない中で、貨幣制度の混乱は収まりませんでした。秀吉の貨幣制度への取り組みも弱く、有名な天正大判(1588年に初鋳)も、皇朝十二銭以来の日本製の計数貨幣(重さではなく枚数で価値が評価されるもの)であると高く評価する者もいますが、後に徳川幕府が発行することになる1両小判のおよそ10倍も大きく、大名への褒賞として与えるなどの儀礼的な用法しかなく、市場に流通する基準的な通貨とはなっていません。

 徳川幕府になって、金・銀・銅貨が発行されて貨幣制度は整備されるのですが、しかし京、大坂を中心とする西日本経済圏では銀貨を基準とする銀本位制が、江戸を中心とする東日本経済圏では金貨を基準とする金本位制がとられ、金・銀貨の交換比率は今日と同様に日々の為替市場で決まるというように、一国二貨幣制度のまま幕末を迎えることになりました。その間、国内貨幣と国際貨幣の交換制度は整備されず、幕末期に開国して後、国内の金・銀貨交換比率と世界市場での交換比率が大きく違って、国内市場の混乱を増すことになりました。

 統一した貨幣制度を中世から近世に至るまで整備できなかったことは、日本が近代資本主義体制に移行できなかった原因の一つとなっているとまでは言えないかも知れませんが、戦国時代から徳川時代にかけて自由で活発な市場形成の妨げになったことは間違いないと思います。そしてそのことについて、信長と秀吉の貨幣制度についての対応の不十分さは、少し二人にとっては酷な言い方になるかもしれませんが、その責任の一端を負っていると言っていいと思います。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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