小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔1〕日本の商人が示した慈善の精神

(3) 戦国時代の新興宗教

 庶民は、伝統的な支配体制維持に利用されていた貴族や武士向けの仏教(天台宗や真言宗など)では、自身の生命や家存続についての大きな不安を取り払うことはできず、細々とではありましたが活動していた鎌倉時代に生まれた新興宗教に雪崩〈なだれ〉をうったようにして帰依し始めました。これらの新興宗教は、それまでの比較的政権に従順であった態度を改め、農民や都市住民に、仏の前ではすべての人は平等であり、厳しい修練を行わなくても、仏を信じて祈れば、来世で救済される(往生できる)と説いたからです。この時代の新興宗教を代表するものが、2つあります。法華宗(ほっけしゅう;日蓮宗)と浄土真宗(一向宗〈いっこうしゅう〉)です。

 法華宗は大乗仏教(だいじょうぶっきょう;インドから東方に拡がった仏教の分派の一つ)の重要な経典である法華経〈ほけきょう)が最も大事であると考えることからそう名付けられたのですが、法華宗を隆盛に導いた日蓮(1222-82年)は、「南無法蓮華経〈なむほうれんげきょう〉」と唱え続ければ、やがて救われると説きました。“南無“とは、「私は帰依します」と言う意味のサンスクリット語で、“妙法蓮華経”は法華経の正式名称です。そして法華経は、「一切の衆生〈しゅじょう;生き物〉は成仏〈じょうぶつ:仏になる〉することができる」と説いているところが、もっとも肝心なところです。

 一向宗の“一向”とは、「ひたすら」と言うことを意味する言葉で、「南無阿弥陀〈なみあみだぶつ〉、南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名号をひたすらに唱え続けることから、浄土真宗はそう呼ばれるようになりました。阿弥陀仏は大乗仏教の如来〈にょらい;釈迦を指す名称〉の一つで、釈迦の死後も仏国土である極楽〈ごくらく〉で説法を続けていると信じられています。つまり一向宗徒は、ひたすらに「なむあみだぶつ」と念じて、死後に極楽に行きたいと強く願う信者たちと言うことになります。

 法華宗(日蓮宗)も浄土真宗(一向宗)も、元は大乗仏教にその基礎があるのですから、その教理自体に大きな違いはないのですが、しかし現実にもった倫理観や行動様式はとても大きく違ったのです。

 京の近辺では、既存の大宗派である天台宗比叡山延暦寺の絶対的な権力が比較的に低下し、京の町に限れば、法華宗がむしろ優勢となりました。法華宗は、日蓮(1222−82年)登場以降に日蓮宗と呼ばれるようになっていましたが、その教義が現世主義に傾いていたことが、賤しい者と蔑まれながらも、旺盛な金融能力を武器にして貴族や武士に対抗して活動していた商人たち、その中でも富裕であった町衆〈まちしゅう〉たちの支持を集めました。それは、京と似た環境にあった大都市、堺や大坂でも同様でした。

 同時代のヨーロッパは、14世紀半ば(1348年)に発生した黒死病(ペスト)の大流行によって半減した人口がようやく回復する時期にあったのですが、地球全体の気温が数度下がる小氷期の到来によって飢饉の頻発に見舞われ、社会は不安定な時代を迎えていました。これに有効な対策をうつこともできず、ただ停滞し、腐敗し続ける旧教(カトリック)の教会に対して大きな不満を覚えた神学者たちが中心となって、ヨーロッパ大陸で宗教改革が行われます(その詳しい説明はここ)。

 恐らくは、14世紀半ばの黒死病に対してのみならず、16世紀に入って又しても襲った飢饉の連続に対して無力であった旧教会聖職者たちの祈とうに対する失望も加えてあったことでしょう。先ずは、「神の言葉を信じ信仰し続けることによってのみ救われる」と説いたルター派が神聖ローマ帝国(現代のドイツ)で生まれ、それから数十年後に、自由都市ジュネーヴでカルヴァン派が興りました。特に、カルヴァニズムは、商人の活動を積極的に評価したので、絶対王政への反発を強めていたイングランドの新興ブルジョワたちが受け容れるところとなり、そのことによって資本主義が生まれ、2度の市民革命(清教徒革命と名誉革命)を通じて確立され、さらに発展していきました。

 小氷期をきっかけに社会体制と宗教の主流が大きく変わったのですが、日本とヨーロッパでは、その後の進む道が微妙に違いました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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