小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔1〕日本の商人が示した慈善の精神

(4) 日本の宗教改革と市民革命

 京の近くにはありましたが農業が中心であった近江では、来世の安寧を特に強く主張する浄土真宗が優勢でした。特に比叡山と対峙した蓮如(れんにょ;1415-99年)が、京を追われて地縁のある近江に退去して以降、浄土真宗は近江地方に急速に広まりました。さらに、蓮如が越前等の北陸地方に移るにつれ、浄土真宗は、北陸地方にも広く伝播しました。浄土真宗は、一般に思われるほど専修念仏による来世での安寧を中心として求めるものではなく、現世についても強い関心を向け、利を求める商人活動については積極的に認めていました。

 日蓮宗が、家(或いは養子相続を認める日本独特の血脈に強く拘泥しない“イエ”)の存続を第一と考えたのに対し、浄土真宗は、信仰者個人を大切とし、家への繋がりの前に、阿弥陀如来〈あみだにょらい〉との関係を主張しました。阿弥陀如来を信仰するものは、如来の前ですべて平等な同胞であるとし、さらに地域社会、ムラ(村)の一体性を重んじて、ムラを単位とした活動を行いました。この地域社会単位での同胞意識が蓮如の思惑を超え、やがて加賀国(現代の石川県から能登半島を除いた地域)での一向一揆に発展することとなります。

 加賀においては、1488年から1580年までのおよそ1世紀にわたる一向宗徒による自治が続きました。一向一揆と言うと、多くの農民一揆と一緒のもののように理解されそうですが、百姓一揆とは2つの点で決定的に違っています。第1点は、百姓一揆は権力者である幕府や大名の治世について改善を求めたものであるのに対して、一向一揆は政権そのものを奪取することを目的としています。そして第2に、百姓一揆がせいぜい数日から数カ月で終わっているのに対して、例えば加賀の一向一揆は92年間、そして大坂石山本願寺の自治は47年間(1533-80年)にも及んでいます。その間一向宗は強大な軍事力を擁し、幕府にもあるいはどの大名にも従わない独立国を維持しています。

 これは、王の存在を認めた立憲君主制をたてたイングランドの市民革命を超えた、農民や商人たちによる革命であったと言っていいでしょう。イギリスの市民革命では、実質的権力を奪ったとはいえ、王制そのものの存続は認めたのですが、一向宗はすべての政治権力を否定した民衆革命であったのですから、その革命の度合いは半世紀後のイングランドの場合よりさらに大きかったと言えます。ことに加賀国の一向一揆では、当時の一向宗最高指導者である蓮如〈れんにょ〉の制止を振り切っての人民自身の発意と指導による革命であったことが特徴です。

 農民主体ではありましたが、商人や職人、あるいはその他芸能人など賤しい身分と蔑〈さげす〉まれ続けていた人たちすべてが真宗の有力メンバーでした。しかし、加賀にあっては前田利家と佐久間盛政に多くの死者を出して武力で倒されることになりました。同時代に、局地的であったとはいえ、同じく民衆革命を成し遂げていた大坂石山本願寺は、織田信長に倒されています(1580年)。これは、日本史最大の宗教改革であると、宗教学者の山折哲雄は説明しています(山折哲雄著『日本文明とは何か−パクス・ヤポニカの可能性』〈2004年〉)。

 しかし小塩丙九郎は、そのこと以上に、これらは日本史上に輝く市民革命であるということの意味の方が大きいと考えています。日本の宗教学者と歴史学者の視点は、常に政権側、つまり反市民側、にあるために、彼らが書く歴史の中では、「日本史上には市民革命はなかった」ということにされるのですが(現在の北陸地方では、人々は、「一向一揆は農民が農地を荒らしまわった大狼藉騒ぎであった」と教えられています)、それは世界史的観点を欠いた理解です。なぜなら、これまで書いてきたように、そしてこれから後でも説明するように、日本とヨーロッパの宗教改革には共通する点が多くあり、そして市民革命と言う観点からもそのことは言えるからです。

 日本でもヨーロッパでも、宗教改革と市民革命はまことに深い関係にあります。そしてイギリスでは、それがさらに産業革命への道を切り拓いたものでもありました(その説明はここ)。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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