小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔1〕日本の商人が示した慈善の精神

(2) 古代のイングランドと日本の宗教の違い

 世界の西端の島国であるブリテン島では、7世紀から9世紀にかけて、イングランドの統一が進むのと並行して、ローマ帝国によるキリスト教の国教化の企みが進行していました。村落の中心に教区教会が建設され、村民はここで教会の定める7つのサクラメント(洗礼、堅振、聖体、悔悛、終油、品級、婚姻)を行うことを強制されました。これを無視すれば、無籍者とされ墓をつくることも認められなかったのです。

 この時期の日本とイングランでは、まったく同じ外部からの宗教の導入と、それを人民に強制することによる強力な中央集権による支配が進行しました。このローマ帝国によるイングランドのキリスト教化は、既存のケルト人の宗教に基づく生活慣習を全否定することによってではなく、それらとキリスト教の融合を図りながらのものでした。この点で、日本で神道を仏教で置き換えるのではなく、神仏習合で対処したという姿勢とまったく同質なのです。

 イングランドでは、8世紀以降(787年チェルシイの宗教会議以降)、不動産、家畜飼育、及び労働についての十分の一税の徴収が開始されたのですが、これも日本の朝廷権力が、仏教僧による呪詛〈じゅそ〉による脅しを通じて、人民に税の支払いを迫ったのと、構造は似ています。ただ、イングランドの場合、徴収した税の4分の1が、貧民救済に配分されるべきとされた点は、日本とは明らかに違っていました。これは、17世紀初頭のイングランドの救貧税制や現代に至るブルジョワの慈善の観念と実践にも大きな影響を与えているので、重要な注目すべき点であると思います。ここにおいては、日本とイングランドは、大きく違ったのであり、その違いは、近代国家の構造についての大きな差を産む一因ともなりました。

 日本ではやがて朝廷が勢いをなくすとともに、地方で武士が勃興することとなりました。朝廷が整えた法制度(律令)に基づき、人民一人ひとりに同じだけの面積の田を班給するという班田収受制が、いかにも官僚(貴族)の計画した画一的なものであったために、地方権力者の要求にはとても応えきれず、在地の豪族や地方に派遣された貴族が次第に土地の私有化を進めて荘園開発に励みました。そのような地方の新興勢力が武力を備えて中央権力者、朝廷、に逆らい始めたのです。

 それまで専ら中央政権に支えられて栄華を誇った大宗派(代表例は空海が中国で学んだ密教を基礎に興した真言〈しんごん〉宗と最澄〈さいちょう〉が中国より伝えた天台宗)の他に、新興宗派が現れ、農民や、当時まだ少なくはありましたが、都市住民本位に活動し始めました。中央集権の強い支えを失った既存の大宗派は、生き残るために、農民や都市住民(商人や職人)の中に分け入り、日々の農耕や生活、或いは商いの繁栄を支える祈とうを行い、医術を施し(この頃、薬学を含む医術は僧侶が独占しており、医療と祈とうの境はありませんでした)、そして安寧の往生を説きました。

空海(左)と最澄(右)
〔画像出典:Wikipedia File:Kobo Daishi (Taisanji Matsuyama).jpg (空海)、File:最澄像 一乗寺蔵 平安時代.jpg (最澄)〕

 それまで伝統仏教(顕密仏教と言います)では、往生するためには、厳しい修行が必要であると主張してきたのですが、それでは貴族ばかりが往生できることになるので、庶民の往生の道を開くために、日々の仕事を行いながらも仏を信じ、深く祈れば往生が叶う、とその主張を変えたのです。こうして、中世鎌倉・室町時代に大宗派は生き延びました。そして下剋上の戦国時代が始まり、それは14世紀末から15世紀いっぱいのおよそ1世紀間も続くことになります。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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