小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


この章のポイント
  1. 日本の縄文人の信仰と、イギリス人に繋がる古代ケルト人の信仰はほぼ同じものだった。そして大陸から世界規模の宗教を伝統的宗教と融合して採りいれたところも、日本とイギリスでは同様であった。

  2. ヨーロッパでは、権威を大事とするカトリックに反抗してキリスト新教、プロテスタンティズム、が生まれたのであるが、日本では顕密仏教に反抗して農民や商人を基盤とする新興宗教が生まれた。

  3. 日本で生まれた新興宗教の一つである浄土真宗の教義は、ヨーロッパの宗教改革で生まれたキリスト新教の一派であるカルヴァン派の教義と一部を除いて酷似していた。

  4. カルヴァン派の教義、カルヴァニズムはイングランドにわたって市民革命を産み、同時に近代資本主義を産んだ。

  5. 浄土真宗が生まれた北陸地方では、戦国時代にイギリスの市民革命をも凌駕する一向一揆を産み、江戸時代には同胞意識と慈善を大事と考える大資本、北前船廻船問屋を産んだ。

  6. イギリスに生まれた近代資本主義は、ピューリタンによりアメリカ新大陸に伝えらえ、最も近代資本主義原理に近い経済体制をアメリカで産んだ。

  7. 日本の浄土真宗は、江戸時代に封建権力に抑圧され、明治維新の廃仏毀釈運動の中で大弾圧され、日本で近代資本主義に類似した経済体制が生まれることはなかった。

  8. 近代から現代にかけて、新旧キリスト教、あるいは禅宗に帰依する経営者が独自の経済倫理を産んでいるが、それらはアメリカやヨーロッパのものに比べると弱々しいと言わざるを得ない。


〔1〕日本の商人が示した慈善の精神

(1) ケルト人と似た縄文人の宗教心

 紀元前7世紀頃から数世紀をかけて大陸からイングランドにわたって住みつくようになったケルト人たちが信仰していたのはドルイド教と呼ばれている宗教です。人々は、霊魂は不滅で、死後はあるものから他のものへ移ると信じていました。こういう観念は、一般的に“霊魂転移説”、或いは“輪廻〈りんね〉”と学問上は整理されています。そのようにして、死の恐怖を人々は克服していました(ガイアス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』〈紀元前52年頃〉第14節による〈浜林正夫著『イギリス宗教史』《1987年》より〉)。ケルト人たちは、自然そのものが神であり、自然物の中に霊が宿っていると考えていたのです。

ケルト人
ケルト人の分布と鉄器時代にケルト人がつくった銀器
〔画像出典:Wikipedia File:Distribution of Celts in Europe.png 著作権者 User:Quadell(ケルト人の分布)、File:Gundestrupkarret F.I.7074b.jpg 著作権者:Nationalmuseet(銀器)〕

 これと同じ頃の日本の時代を、われわれは縄文時代(末期)と呼んでいますが、上に示した文章の中の“ケルト人”という言葉を“縄文人”と置き換えたにしても、それは日本の宗教史を書き改めたことにはならないでしょう。この時代、後のイギリス人に育っていく人々と、日本人と呼ばれるようになる人々の精神は、同じでした。しかし、それがどこかで大きく道を違えていくことになりました。それは、どこで、どうして起こったのか、どのように違ったのか、というのがこの項のテーマです。

 およそ6,000年前の縄文海進期の頃よりは地球が冷え、随分と海水面が下がり(残された貝塚の位置の分析から、8メートルほどと推定されます)、古代日本人の眼前には広大な湿地と沼地が広がっていましたが(その頃の関東地方の地図はここ)、その中の乾いた沖積平野の部分で稲作が始まりました。

 農業生産活動は、家族から部族への組織化を促し、余剰生産物を集約する中央政権が生まれました。政府は、小さな人の集団それぞれが崇〈あが〉める神々の上に、中央政権の誕生を根拠づける偉大な神を置きました。アマテラスオオミカミ(天照大神)とそれに連なる神々です。中央政権の主座に立つ天皇は、祭祀を支配し、耕作の豊穣なることを祈り、災害の去らんことを祈とうし、そして神々の与える恵みに感謝しました。そうして、緩やかにではありますが、生産はさらに拡大し続け、中央政権は次第に巨大化し、文化も、或いはそれらを統括する官僚組織(貴族)も生まれました。

 その頃、大陸(中国)から朝鮮半島にある国々を経由して、或いは東シナ海を直接に渡って、文明・技術とともに、インドに生まれた後に中国流の翻訳がされた仏教が伝わってきました。中国流とは、“孝”や“善行”の価値が混入させられ、それに発してインドにはなかった死者祭祀儀礼が付け加えられていたということを指します。このことが、後の葬式仏教の発展に繋がることになります。

 仏教は、人の死について雄弁に語りました。蘇我〈そが〉、物部〈もののべ〉両氏の抗争の末、仏教導入を主張した蘇我氏が勝利して(587年)、朝廷は仏教を受け容れることになりました。こうして天照大神の後裔〈こうえい〉であるとされた天皇が、仏教をも司るようになりました。

 日本人は、死を強く意識し始めました。しかし、仏たちは、日本の神々を殺すことなく、まことに円滑にそれらと融和し共存しました。日本の神々は、実は様々なホトケ(仏)が化身として日本に現れた権現〈ごんげん〉であるというのです(このことを宗教学では“神仏習合”と呼んでいます)。この“本地垂迹”説を定着する過程で、アマテラスオオミカミ(天照大神)は大日如来〈だいにちにょらい〉の垂迹(すいじゃく;仮の姿)であると位置づけられ、それまで世界の辺境(日本)の地方神であった日本の神々を宇宙の根源神に再生する作業が行われたことが重要である、と宗教学者は意義づけています(平雅行著『6 神仏と中世文化』〈歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座 第4巻 中世社会の構造』〔2004年〕蔵〉より)。

 中央政権にとって、仏教を差配する権限を手に入れたことは、まことに大きな意味を持っていました。中央政権は、それまで神々の祭祀を司り、或いは祈とうすることにより、神々の祟〈たた〉りによる災害の予防や除去に力を示してきたのですが、僧侶の資格制度を設けるなど、古代仏教について厳格な管理を行うことにより、今度は人びとの死後の安寧を差配できるという脅しを通じて、人びとへの支配を強めることができたのです。

 現世の苦しみは、死ねばなくなりますが、もし地獄に落とされれば、その人の苦しみは永遠に終わることはありません。そのため、年貢の支払いを拒否した者や、さらには滞納した者にまで、呪詛〈じゅそ〉が施されました。そのような中で、権力を得て安定した中央政権と寺院はともに、次第に堕落しました。同じ時代のヨーロッパの教会や修道院と、まるで同じようにです(それについての詳しい説明はここ)。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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