小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

2-世界最先端に迫った自由都市泉州堺


(2) 日本の鉄砲は世界最先端だったか?

 16世紀半ば頃、鉄砲が種子島に漂着した南蛮人によって伝えられ、それ以降日本全国に鉄砲が普及したと子どもの頃教えられてきました。今の教科書にもそう書いてあります。これを聞くと、当時のヨーロッパの最先端の武器が、ヨーロッパ人によって直接日本にもたらされたように誰も理解するでしょう。しかし、鉄砲伝来の様子を詳しく調べた学者の意見は、これとは相当違うようです。

 先ず第1に、1543年に種子島藩主時尭〈ときたか〉に鉄砲を伝えたのは五峯と言う名の主に中国人から構成される倭寇の1人でした(五峯は後の倭寇棟梁王直と同一人物らしい)。ポルトガル人も2人やってきました。しかし、彼等は倭寇の一味として連れられて倭寇のジャンクに乗ってやってきました。漂着ではありません。

 第2に、もたらされた鉄砲は、ヨーロッパ製ではなくマラッカ辺りのポルトガル人の植民地に彼らがつくった工場で製造されたもののようです。銃尻を肩に当てて発砲するヨーロッパ製の銃ではなく、頬に当てて撃つアジア製のものに日本の鉄砲の形が様々な面で酷似していることからそう推察されています(古銃研究家所荘吉による)。実際、種子島と呼ばれる初期の日本の鉄砲は非常に細長くて軽そうに見えるのですが、16世紀末に描かれたヨーロッパの鉄砲は頑丈そうで、とても種子島と同じものには見えません(下の図を参照ください)。

日本とヨーロッパの火縄銃
〔画像出典:日本の鉄砲: Wikipedia CC 表示-継承 3.0 File:Arquebus.jpg ヨーロッパの鉄砲:Wikipedia  File:Muszkieterzy.JPGの一部を抜き出し。

 ポルトガルは、中国(明)にマラッカ海峡を越えて東アジアの海に入っては商業活動を行うことを禁止されていたので、ポルトガル人が密貿易団である倭寇に参加して、自国資本がアジアに建てた工場で造った鉄砲を日本に売りに来ていたのです。そして、第3に、種子島にもたらされた鉄砲は、当時の世界最先端の武器ではありませんでした。16世紀初頭の1520年に、ヨーロッパでは火縄を使わなくてもすむ歯車式発火装置の銃が発明されているし、さらに1525年には火打石式発火装置のついた燧〈ひうち〉石銃が発明されていて、火縄銃は既に時代遅れになり始めていたからです。

 これらのことは、アジアで一番早く鉄砲を作ったのは日本ではなく、日本人が手に入れ作り始めた火縄銃は世界最先端のものではなかったことを意味しています。しかし、いくつか評価すべき点があります。

 第1に、日本人が火縄銃を模製するのに銃身のもとをネジで止めることを自ら習得したということです。このネジは鉄砲製造技術の中でも、重要なものでした。ネジをきちんと押し込んで銃尻を止めないと、火薬の爆発力で銃尻が吹き飛んでしまう恐れがありました。この締結用のネジは、ヨーロッパでも16世紀に入ってようやく使用され始めたものでありましたので、ネジ製作技術では、当時の世界最先端に追いついたと言ってもいいでしょう。

  そして第2に、日本人は玉の装填速度が遅い火縄銃の欠点を補うために3人一組になって順々に撃ち、発射間隔を短くすると言う速射法を編み出しています。堅固な野戦陣地と大量の鉄砲を組み合わせると言う戦法は16世紀初めにスペイン人(ヘルナンデス・ゴンザルボ・コロドバ将軍、1503年)が使っていますが、その上に速射法を加えた長篠の戦での織田信長の戦法は、当時の世界最先端でした(軍事史専門家鈴木真哉、藤本正行の主張による。多くの日本人が知っている三段構えの一斉射撃というのは、後世の作り話だということです)。つまり鉄砲の武器として使い方というソフトの開発では、日本はヨーロッパに負けていませんでした。

並んで鉄砲を打つ足軽
一列に並んで射撃姿勢をとる足軽
〔画像出典:File:Strings for night firing.jpg〕

 そして第3に、種子島に初めての鉄砲2挺がもたらされてから日ならずして、日本は全国でおよそ30万から50万挺を保有するに至っています。数は正確ではありませんが、少なくとも当時のヨーロッパの総保有数に匹敵する数の鉄砲が日本全国に普及したことは、ほぼ間違いがありません。日本を訪れたポルトガル人が、地方大名ですら数千挺の鉄砲を保有すると知って驚嘆したという記録が残されています。そして、この大量の鉄砲は、泉州堺と江州国友(現滋賀県長浜市)で主に造られたのですが、堺では、部品を規格化して別々の作業場で別々の職人が造ったものを最後に組み立てると言う大量生産方式が実現していた可能性があるとみられています。

 この大量生産を実現するためには精度の高いネジが必要とされるので、正確に雌ネジ(銃身内部に切られた溝)を切るタップと呼ばれる工作道具を自力で開発していた、と阪村機械製作所会長阪村芳一は主張しています(阪村のブログ『ネジと人生』より)。これは、19世紀にアメリカ人がヨーロッパ製の銃を改良して命中度の高いコルトの大量生産技術を開発した経緯に酷似しています。つまり、16世紀(後半)の日本と19世紀(前半)のアメリカは、その生産するものが火縄銃とリボルバー式拳銃と型が違うという点を除けば、まったく似た産業体制を持っていたことになります。言ってみれば、16世紀(後半)の堺の商工業者と19世紀(前半)のアメリカの商工業者は同じ精神を共有していたと言っても、間違いとは言えないかも知れません。

 ちなみに、明治期に入っての産業革命が進んでも、多くの国からの輸入品の席巻に任せた日本市場では、20世紀に入ってもなお、ネジ山の形の統一すら行えていませんでした(沢井実著『機械工業』〈岩波書店『日本経済史4-産業化の時代 上』《19990年》蔵>より)。中世末期の堺の先進性が、思い知れるのです。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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