小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

2-世界最先端に迫った自由都市泉州堺


この章のポイント
  1. 戦国時代の泉州堺は、自由都市だった。

  2. 堺は鉄砲の生産・流通を国際的、総合的に行う世界最先端の経済構造をもっていた。

  3. 堺が持っていた先端性は、江戸時代に引き継がれなかった。

  4. 戦国時代の日本は、2次産業産品の輸出国だったが、明治維新以降の日本は1.5次産業産品しか輸出できなくなった。

  5. 自由が経済を成長させるのは、中世の日本でもヨーロッパでも同じだった。


(1)自由都市−泉州堺

 長い日本史の中で、世界史的観点から見て最も輝いているのは、戦国時代の自由都市−泉州堺である、というのが小塩丙九郎の評価です。

 16世紀に栄えた泉州堺は、当時の世界の最先端であるマーチャント・マニュファクチャラ―という生産・流通一体の経済構造を実現していました。また、堺が実現した鉄砲、火縄銃、そのものの製造技術は世界の最先端よりわずかに遅れていましたが、その大量生産方法において当時の最先端であった可能性があります。これからの日本の可能性を考える上で、泉州堺は、若い皆さんが未来づくりにチャレンジしてみようとする勇気をかきたてることに、十分に貢献してくれると思います。

 戦国時代の泉州堺(今の大阪府堺市)は、当時そこを訪れたヨーロッパ人宣教師、バテレン、から、当時のヨーロッパ世界を代表するヴェネチアに似た“自由都市”だと呼ばれていました。それは、彼らが日本人にお追従〈ついしょう〉でそう言ったのではなく、本国に書き送った報告者の中での表現ですので、彼らが堺を大変評価していたことは素直に受け取っていいと思います。

 “自由都市”とは、王国の中で封建領主の支配に属さないで、独立して自治を行うことを認められていた都市のことを言います。富裕な商人たちが、流通のみならず職人を雇用するなどして生産をも一括して管理し、共同してギルドと呼ばれる同業組合をつくり、次第に経済力をつけ、さらには傭兵を雇って封建領主に抵抗する軍事力を得て、封建領主と並ぶ地域の支配権を獲得していたのです。

 ただ、ヴェネチアだけは例外で、異民族の襲撃から自分たちを守るために岸から離れた位置に小島を繋げて都市をつくり、いかなる王国からも完全に独立していました。ヴェネチアは当時ヨーロッパ1の実力の艦隊を保有し、16世紀最大の国際交易都市として栄えていました。だからヴェネチアは自由都市であるというより、都市国家といった方が正確かも知れません。

 そのヴェネチアに、宣教師たちは堺をなぞらえたのです。それだけ堺の繁栄の様子に宣教師たちは感じ入ったということです。同じ世紀の末にフランドル人アブラハム・オルテリウスが描いた日本地図にも、京(MEACO;みやこ〈都〉と記載)と並んで堺(Sacayと記載)の名が書かれています(下の図を参照ください)。

中世日本地図
〔画像出典:WikipediaFile:Orteliusstraat Japan.jpg〕

 実際のところ、当時の堺は、どの戦国大名の支配下にもありませんでした。ヨーロッパの自治都市と同様に傭兵を雇い、町を三重の環濠で守って独立していました。戦国大名が本気になって堺を攻めれば、堺を落とすことはそれほど難しくはなかったかも知れません。しかし、堺は博多(現福岡市)を凌ぐ国際交易を行っており、物産が多く集積し、戦国大名に融資できるほどの資力を蓄えていたので、戦国大名は堺を攻め滅ぼすことより、それといい関係を保って、融資を受けて軍資金を得、或いは先端武器を調達した方が、他の戦国大名たちに対抗する上では得だと考えたのです。

 こうして堺は、微妙な戦国大名同士の力のバランスの上に独立を保持していました。ヨーロッパの自由都市ジュネーヴのようにです。その意味では堺を東洋のヴェネチアと呼んだ宣教師たちの堺の評価は少しでき過ぎであったと言えるかもしれません。

 堺が発展したもともとの原動力は、中国や東南アジアと結ぶ国際航路の最も奥にあって当時の首都である京に近かかったので、15世紀の初めから始まった遣明船貿易の商船を派遣する権利を朝廷や室町幕府から得ていたことです。当時の航海技術では、東シナ海を渡ることには大きな危険が伴いましたが、しかし無事帰国すれば莫大な利益を上げることができたのです(歴史学者脇田晴子の計算では、1隻につき、現在の価額で約19億円、利益率は6割超。5万石の大名の1年分の年貢収入に相当するという見方もあります)。

 その堺が戦国時代に栄えるために国際交易と並んで有力な手段としたのは、当時の先端武器である鉄砲、火縄銃、の生産と販売でした。堺は、鉄砲に関わる事業を行う上で、当時のヨーロッパと並ぶ最先端の経済構造を構築していました。或いは鉄砲の生産体制については、ひょっとすると世界の最先端を凌いでいたのかもしれないと想像する複数の歴史学者がいます。そこで以下、戦国時代の鉄砲がどのように日本に伝わり、そのように発展したかということをひも解きながら、泉州堺の先端性に迫っていきたいと思います。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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