小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

4. ベンチャーを産んだ江戸時代前期


(5)幕府官僚の誕生

 今まで既に、“幕府官僚”という言葉を何度か使っています。それは、17世紀に入って平和の世になると、武闘を専らとする武士の役割は大きく減り、幕府の行政官としての能力がより求められるようになり、それに長けた者が出世するようになったからです。

 家康とその子秀忠の時代の幕府組織は、戦国期に合わせた体制を引き継いでいましたが、3代将軍家光の時代には、行政業務が多くなり複雑にもなったので、効率的な政務実行組織が必要となり、老中や若年寄の規定の創設に始まり、17世紀半ばには職務規定が奥坊主の茶の入れ方まで定めるほどに緻密なものとなりました。遊びから帰った3代将軍家光の乳母〈めのと〉である春日の局〈つぼね〉が門限に遅れて、日が明けるまで門前に待たされたと言う逸話はこの頃生まれたものです。

春日の局
春日の局が江戸城門外で一晩待たされた!?
〔画像出典:Wikipedia File:Kasuga no tsubone.jpg(春日の局)、File:Babasakimon = a Gate of Edo Castle.jpg (馬場先門)〕

 1723年に8代将軍吉宗が改訂した石高制によって、下級の家格の出の者であっても、有能な者であれば抜擢して、在職中に限り高禄を給付すると言う仕組みが出来ました。そして、トップである将軍の恣意も官僚によっておおいに抑えられるようになりました。日本の官僚制と常に共にある“文書主義”もこの頃に生まれました(由井恒彦著『江戸時代の価値体系と官僚制』〈1977年『日本経営史講座第1巻―江戸時代の企業者活動』より〉。

 文書主義と言うと、幕府官僚が行政・司法を専らとしたように思われるかもしれませんが、幕府官僚は同時に経済実務官僚でありました。特に、中世において問丸〈といまる〉と呼ばれる業者が行っていた年貢の輸送、保管、販売業務を、近世に至って幕府官僚が直接行うようになったからです。しかし、それ以外に幕府官僚が直接個々の商工業者に向い合うということはなく、徴税事務を含めて、町の行政については町名主を、そして業界運営については8代将軍吉宗の時につくらせた株仲間の代表を通じて行っています。

 武家の長男は様々な幕府での用務に就いたのですが、次三男はなすべきこともなく、部屋住みとして無為に暮らしていました。そのような者に直接個々の商工業者、つまり町人、に対する行政・司法業務をさせれば幕府官僚も経済実態を知ることもできたでしょうが、農本主義と権威主義を大事とする幕府官僚たちは、自ら賤しい商業行為に近づくことは避けたかったようです。

 経済が発展すると商業者間のトラブルも頻発するのですが、幕府官僚は商法の制定には向かわず、紛争処理は専ら商人同士で片付けるべきものとして遠ざける癖が、時代が下がるにつれて進んでいきます。このことも、自由市場の育成の障害となりました。もっとも、幕府や諸大名は、武家の商家からの借金の棒引きを時おり強要しているので、自らを金融についての司法判断の責任者としての場所には置けない、と考えたのかもしれません。

 幕閣のトップ、老中〈ろうじゅう〉、にまで下級の家格の出の者が上りつめられるようになるのはさらに年数を要しますが、しかし、17世紀半ば以降に幕府の政策を立案し、実行する役人は、“官僚”と言う表現で表すことがふさわしい役目を持ち、振る舞いをするようになりました。江戸時代に生まれたこの官僚は、現代にまで至る後の近代官僚と同じ行動規範を持っていると言っても間違ってはいないと思います。どうしてそう考えるかは、後代の歴史を紹介する中で、折に触れて説明していきます。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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