小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

4. ベンチャーを産んだ江戸時代前期


(4)大坂−江戸廻船の熾烈な市場競争

 江戸時代初期から、熾烈な市場競争があった分野が一つあります。大坂と江戸を結ぶ日本の第一の航路での海運業についてです。18世紀以降の江戸後期には、幕府官僚による市場管理が始まり、海運業についても介入があるのですが、17世紀から始まった市場競争は、荷主たちの切実な要求を満たすものであり、市場競争の勢いが官僚による市場管理の力を上回った稀有な例です。

 江戸時代初期に、農地の大開発が進み、それにともなって貨幣経済が大成長すると、全国の各地を結ぶ運送業も発展してきました。中でも最も著しく成長したのは、政治の中心地として人口が急増した江戸と商都大坂を結ぶ海運航路です。なお以下の概説を書くに利用した具体的史実の多くは、宮本又郎・上村雅洋著『徳川時代の循環構造』(岩波書店『日本経済史1 経済社会の成立』〈1988年〉蔵)に拠っています。但し、事実の解釈は小塩丙九郎独特のものであり、従って文責はすべて小塩丙九郎にあります。

 先ずは、大坂夏の陣が終わって4年経ち、政情が落ち着いた1619年に、大坂から江戸に向けて250石積みの船が木綿、油、綿、酒、酢、醤油などの生活必需品を積んで泉州堺の商人の手によって運行されます。これが菱垣廻船〈ひがきかいせん〉の始まりです。菱垣廻船とは、使われた船の転落防止の手すりが菱形に組まれていたのでそう呼ばれました。最初の船は、後に千石船と呼ばれる船の4分の1しかない中型船でした。

菱垣廻船
復元された菱垣廻船浪華丸(なにわの海の時空館)
〔画像出典:Wikipedia CC 表示-継承 3.0 File:Osaka Maritime Museum Naniwamaru.jpg 〕

 当時は、海図を読んで大坂から外洋を江戸に向けて直行するというのではなく、海岸線を確認しながらの昼間のみの目視航行でした。航路途中何度も寄港して、積荷を降ろし、或いは積んで、最後にようやく目的地に到達するという具合でした。積荷は様々であったので、船底や甲板に雑多に積み上げられるので、寄港の度に停泊時間は長くなり、大坂から江戸まで最速で10日、平均しておよそ1月を要していました。

 初めて菱垣廻船が運行されてから10年もたたない間に、大坂には5軒の廻船問屋が開業しています。問屋は、自らの船をもたず、船主と荷主の双方の取り次ぎをし、その手数料で賄うのが基本ですが、その他に積荷の保管、売買相手の斡旋や仲介、諸税の徴収と幅広い業務を行い、海運業の中核をなす存在でした。

 しかし、廻船運行について廻船運行業者による積荷の盗みその他の悪行が重なったので、17世紀末には先ず江戸で、次いで大坂で問屋を集めた組織(江戸十組問屋と大坂廿四問屋)が設立されました。これは今で言うところの業界団体で、廻船業務に係る規定の整備を行うなどして、荷主の保護を図りつつ、安定した事業の発展を図ったのですが、結果、船の数も急増しました。

 しかし、伊丹や灘の酒造業者は、菱垣廻船での運送について満足していませんでした。当時の技術では、酒の品質を長期間維持することは難しく、鮮度のあるうちに酒を消費者に届ける必要がありました。店から出して江戸に着くまで1月ほどは覚悟しなければならないというのでは困るので、酒樽の都合を優先して運ぶ専用船の運行を思い立ちます。これを最初に企画したのが、先に紹介した(ここ)鴻池新六ですが、1658年に大坂に樽廻船問屋ができています。

 樽廻船とは、多くの酒樽を運べるように広い船底をもった菱垣廻船と違った船型をもっており、大坂から江戸まで途中どの港にも寄ることなく、江戸に直行しました。船底に多くの酒樽を積んだことから重心が下がって船が安定し、海難事故率が下がり、また酒樽運送で基本的収入があることから、酒樽の上に空いたところに積む雑貨の料金は比較的低廉なものとされました。また、荷主の都合により発足した樽廻船は、菱垣廻船より海難事故時の補償を丁寧に行ったこともあり、次第に菱垣廻船を圧倒するようになりました。

 17世紀末には、頻発した船主の不正や船主と荷主のトラブルを防止するため、契約規定を整備して円滑な廻船業務を管理するものとして廻船問屋組合が大坂と江戸にできます。今でいうところの、業界団体です。そして樽廻船の船が増えるにつれて、18世紀に入ってからは樽廻船問屋が独立して別の問屋組合を組織することになりました。このころすでに、菱垣廻船と樽廻船の間の熾烈な競争が行われることとなっていました。

 菱垣廻船問屋組合と樽廻船組合との間に紳士協定を結ぼうとする試みも行われたのですが(例えば1770年の積荷協定の締結)、結局は市場の競争原理が勝ち、樽廻船が菱垣廻船を圧倒していきました。天保の改革に伴う株仲間の一時解散(1841年)や7年後の株仲間の再構成という幕府官僚の市場管理策の変遷により若干の影響はあったものの、菱垣廻船と樽廻船とが激しく市場競争し、より優れたサービスを荷主に提供し続けた樽廻船が市場で優位に立つという状況は、幕末に至るまで変わることはありませんでした。

 市場を自由にすれば、活気に満ちた業務が行われるということを示した、徳川時代を通して他にない好例です。なお、徳川時代には千石を超える積荷を搭載できる船の建造は禁止されていたので、市場競争も制約を受けて菱垣廻船も完全になくなるまでには至りませんでしたが、競争条件がより自由にされていれば、さらなる海運業の発展があったであろうことは、容易に想像できます。

 なおこれとは別に、大坂と北陸、さらには蝦夷地(現北海道)を結ぶ北前船〈きたまえぶね〉がありました。当時の航海技術では、房総半島沖を抜ける航海は危険であったために、大坂と江戸を結ぶ航路以外では、北前船が最も重要な遠距離航路でした。その航路での海運業を差配する廻船問屋が近江(現滋賀県)や北陸地方で活発に活動していたのですが、それらは日本の経済史の中で、すこぶる重要な役割を果たしています。そのことについては、別のところで(ここ)詳しく紹介します。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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