小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

4. ベンチャーを産んだ江戸時代前期


(3)江戸時代のベンチャーの勃興

 17世紀初めから始まりおよそ1世紀続いた大農地開発により、200万人以上の新たな自由農民とその家族が生まれました。農民についてみれば、この時代の労働市場は比較的自由であったということです。どんな時代のどんな場合でも、市場の自由は経済の拡大と国民の安寧の増進に貢献します。中世末から近世にかけての農業技術の開発と、自由な農業従事者の労働市場が、17世紀の農業生産の大拡大をもたらしたと言っていいでしょう。

 この比較的自由な市場環境を活かして、生まれ、或いは発展した新興資本がありました。中世後半に発展し始めた貨幣経済は、17世紀に入って平和が訪れ、農業生産が急速に拡大し、大名や家臣団のみならず、農民も次第に豊かになる中で、さらに勢いよく発展し始めました。そしてそれは、新商品の開発や活発な流通産業の発展を促したのです。

 例えば、耕地面積が拡大されてゆとりが生まれた分、従来米作に充てられていた耕地が木綿や大豆などの商品作物生産に向けられました。米の一部が酒醸造に消費され、綿はより高品質の衣料用の糸に紡がれ、大豆は調味料の醤油や味噌の原料とされました。或いは、当時の数少ない染料の原料であった藍〈あい〉が栽培されました。中には、金ほどに高価だという口紅などの化粧材量として紅花〈べにばな〉を栽培するところもありました。

徳川家康
三井の看板と富士(葛飾北斎『富岳三十六景』)
〔画像出典:Wikipedia File:A sketch of the Mitsui shop in Suruga street in Edo.jpg 〕

 江戸時代を代表する豪商と言えば、先ずは鴻池〈こうのいけ)家と三井家だということについては、反論する人はいそうにありません。三井は、今でも強力な企業グループを構成しているし、鴻池は三井ほどには隆盛し続けていませんが、しかし多くの豪商が没落する中で、明治期においても財閥の第2グループに居残るほどには頑張って、銀行(第十三国立銀行)を設立するまでにはなりました。

 しかし、当然のことながら、これらの商家も突然に大商業資本になったわけではありませんでした。元は、今の言葉で言えば、ベンチャー資本でした。ベンチャーとは、若い創業者が革新的な技術開発を行い、同業者との事業の差別化を行いつつ、リスクをとりながら野心的に事業を拡大していく民間企業のことを言います。そして、三井と鴻池は、この定義にピタリと当てはまります。

 鴻池家の初代棟梁である新六(1570〜1651年)は、従来の濁り酒を澄ませる技術を得て清酒という新商品を開発し、他の業者を出し抜いて船の難破の危険を冒してまで江戸にまで廻送して販売するという冒険的なビジネスを強行して財をなしました。清酒をつくる技術は他の酒屋も得ていたという説もあり、真偽は確かではありませんが、少なくとも江戸に廻送して販売するという大流通ルートを開発したのが鴻池であることは間違いがなさそうです。

 新六はまた、当時大坂と江戸を結んでいた菱垣廻船〈ひがきかいせん〉の効率の悪さ(多品種の商品を積むので出航準備に手間取り、重心が高いので海難事故率が高く、途中多くの港に寄るので、江戸までの廻送時間が長くて清酒の品質を落とした)に不満で、酒造業者を集めて清酒運搬専用の樽廻船〈たるかいせん〉運行事業を始めました。樽廻船運行事業は、江戸時代前期の経済発展を象徴するビジネスなのですが、それについては改めて詳しく(ここ)説明することとします。

 新六は、酒醸造業者でいることに飽き足らず、得た資源を元に金融業(高利貸し)を始め、多くの藩が彼の顧客となりました。江戸時代のベンチャーが江戸時代の大金融資本に育ったという次第です。

 三井家の実質的初代の高利(たかとし;1622-94年)は、江戸の日本橋に呉服屋を開業した当時「越後屋(或いはゑちご屋)」を号しましたが、「店前売(たなさきうり:店頭販売)」、「現銀安売掛値なし」、「呉服の切り売り」、「一人一色の役目(商品種別に応じた分業)」などの革新的な顧客応対法を開発して事業を急速に拡大しました。今では当たり前のその商法は、訪問販売・ツケ払いが常識だった当時としては、まことに革新的なものでした。近代にその例を探せば、“価格破壊”をスローガンに、日本初のスーパーマーケット・チェーンを開発したダイエーでしょうか?

 鴻池が清酒業で得た資産を元に大名貸しに成長したのに対して、三井は江戸‐大坂間の両為替取引を行う大金融機関に発展しました。大財産を背景に幕府官僚の信用を得て、江戸→大坂の商品代金送金と大坂→江戸の米売却に伴う公金送金を相殺して、幕府の現金輸送の危険と手間を省くとともに、幕府への上納期限にゆとりがあったことを利用して利鞘を稼ぐ(手数料はタダ)工夫をして、次第にその財力を強めていったのです。

 この時代のベンチャーの例としては、他に住友があります。住友家の入り婿で2代目の(蘇我)理右衛門(1572-1636年)は、「南蛮吹き」と呼ばれる製銅法を明人(白水)から学び、精銅の過程で銀を抽出する技術を得て初期の資産を得ました。この技術は秘伝とされて、日本では住友のみのもつ差別的技術となりました。17世紀末(1691年)には、その資産を活かして当時世界最大級の別子銅山を開発し、日本の輸出に貢献しながら、大商業資本に育っていきました。当時の日本は、銅と銀の大資源国であり、日本の貿易はその輸出によって支えられていました。

江戸時代の3大ベンチャー(起業者)

鴻池(新六):伊丹、武士出身

三井(高利):松坂、商人出身

住友(蘇我理右衛門):河内、銅職人出身

 このように、江戸幕府が開闢〈かいびゃく〉されて後の1世紀の間は、秀吉が確立した楽市楽座制がまだ生きており、市場が比較的自由であったので、ベンチャーが興り、大資本に育つことができました。しかし、この自由な産業活動に急ブレーキがかかります。幕府が民間商業資本の自由な大発展を嫌ったのです。市場経済が発展すると余剰気味の米の価格に対して諸物価が上昇し、米年貢に大きく依存する幕府官僚の生活は富裕な町民のそれに比べて見劣りし始めました。そういう環境の中で、幕府官僚は経済構造改革するより、農本主義を大事として、市場管理をする方向に向き始めたのです。

 17世紀が終わりかける頃に、一つの大事件が起こりました。当時大いに屋台骨が傾きかけていたとはいえ、なお大坂で隆盛を誇っていた、社会貢献事業として淀屋橋を架けたことで有名な淀屋が幕府により全財産を取り上げられ廃業に追い込まれた(「闕所〈けっしょ〉」と言います)のです。勿論そのような処分にあうからには、様々な表向きの理由があります。しかし、その背景として、淀屋が多くの大名に莫大な貸金をしていて、その踏み倒しを狙った勢力があることがあるように疑われています。

 時代がさらに下り、18世紀から19世紀になる頃には、大名の借金踏み倒しは頻繁に起こるのですが、これはその走りと言っていいでしょう。また、幕府は、経済事情が悪化すると何度も「棄捐令〈きえんれい〉」という法令を出して、商家に武士に対する債権放棄を強要するようになります。経済秩序を確立して、産業発展を図るということより、当面の自分たちの財政の立て直しを優先するという日本の政府の悪業は、この頃既にその萌芽を見せています。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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