小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

4. ベンチャーを産んだ江戸時代前期


(2)大農地開発時代

 16世紀中におおよそ戦国時代が終わり、1615年に豊臣家が滅んで全国に平和が訪れると、大名たちは戸惑ったに違いありません。戦時と平和時の治世のあり様は、まったく違ったものが要求されるからです。平和になったのだから生活向上を図れという領民と家臣団の要求に応えるには、もはや他国の略奪ができない以上、自国の米作高を増やすしかありません。そこで、領主たちは、競って縄文海進期以降海岸線が後退して残された多くの湖沼や湿地の埋め立てに精を出しました。

 著作権の都合により絵を提供できませんが、例えば米沢市上杉博物館に収められている図面(越後国頸城郡絵図)で越後国頸城〈くびき)郡(現新潟県糸魚川市)を見ると、その大半は川と沼に覆われており水田として使われている所は1割に満たないほどしかありません。そしてそれらの地域は現在、ほぼすべて水田として耕作されています。この地の干拓は江戸時代前期に行われたのですが、そのような光景は全国に見られます。

 大規模な総合治水策を必要とする新田開発は、農民個人の努力では実現できないので、軍備増強の必要性から解放された大名による大規模な投資による河川改修を含む広大な面積(数100から1000町超〈数100から1000ヘクタール超〉)規模に及ぶ大規模耕地開拓事業という形で行われました。さらに農耕技術の開発も試みられました。

 米の品種の改良もありましたが、しかし大きな効果は産んでいません。食糧供給水準が低い時代に赤米と呼ばれる長粒外来種のインディカ米を導入することがあったのですが、反当たり収量が多く、水の供給状態に影響されにくく、収穫期が早くて台風被害を避けられるという利点はあった一方で、味はジャポニカに劣り、しかも寒い東日本では生産できなかったので、過渡的な試みに終わってしまったのです(斎藤修著『大開墾・人口・小農経済」〈岩波書店『日本経済史1 経済社会の成立』《1988年》蔵〉より)。

 それよりは、農民の活躍が大きな働きをしました。戦国時代に、名主〈なぬし〉に主従関係を強いられた名子〈なご〉として農奴に近い扱いをされていた貧農たちは、積極的な大名の招集に呼応して、国境を超えて干拓工事に参加しました。そうすれば、できた水田の一部を自己所有することが認められたからです。検地の制度は、一方では農民に課税して大名が搾取する手段であったのですが、他方、干拓工事に参加した貧農たちにとっては、農地所有が認められ、登録・安堵されるありがたい制度でもあったのです(田中圭一著『百姓の江戸時代』〈200年〉より)。

江戸前期の経済成長の原動力は、

大名の大規模インフラ投資

零細農民の必死の成り上がり努力

自由な労働市場が身分格差を縮めた。

 そして、このことは百姓の中の封建的身分制を随分と緩和することになりました。名子の中には終生独身で結婚できない、現代でいえば非正規雇用者のような境遇にあった者が多かったのですが、それらの者が結婚し、家をもち、子供を育てることができるようになったのですから、検地制度は、言ってみれば、江戸時代の格差縮小政策でもあったわけです。だから、全国で検地が進んだのでしょう。1980年代以降、非正規雇用率を高めて、賃金格差を大きくして非正規雇用者が結婚できない状況をつくりだしている現代日本は、言ってみれば、江戸時代前期の土地大開発時代から中世の封建的農奴社会に似た状況に逆戻りしつつあると言っていいでしょう。

 このような時代環境と仕組みの中で、米作量を財政・組織運営の基本とする石高制は根付きました。米作量を1石増やせば人口を1人増やせます。それは米作に基づく年貢を基礎とした幕府や諸藩の財政を富ませ、家臣団もその恩恵に被れます。

 さらに、畿内の進んだ農業技術が緩やかに地方に伝搬するとともに、農業生産性が上がり、米作以外の食糧生産も次第に可能になりました。人口が増えた上に、人々の生活水準も向上しました。僅かながらに余剰農産物も生まれ、それは、広域の消費市場を産みました。

 消費市場の拡大は、木綿布生産などの繊維産業の開発をも促しました。そして流通事業を専らとする商人、特に大商家を育てました。拡大し続ける経済の中、すべてはうまく進んだのです。江戸時代の人口を正しく測るのは必ずしも容易ではありませんが、1600年におよそ1500万人であった人口は、1721年にはおよそ3,200万人にまで増えたという人口経済学者の説が有力です(下のグラフを参照ください)。

徳川時代の耕地面積と人口
出典:人口については、速水融・宮本又郎著『概説 17−18世紀』(岩波書店『日本経済史 1』〈1988年〉蔵)掲載データを素に、耕地面積については、宮本又郎著『1人当り農業産出額と生産諸要素比率』(『数量経済史論集T−日本経済の発展』〈1976年〉蔵)掲載データを素に作成。但し、データのない年については前後の間を定成長率で補完。

〔参考:歴史経済学者との見解の衝突〕

 以上の説明は、歴史経済学者の通説に反しています。歴史経済学者は、17世紀に人口が増えて、米価が高騰したために、それが「人口圧力」という力を産んで、それが米作増産を促したと主張しています。これは日本の歴史経済学者が発明した経済論ではなく、デンマークの経済学者であるエズラー・ボズラップがイギリスの古典派経済学者トマス・マルサスの『人口論』(1798年)(『人口と技術移転』〈1981年;日本語訳1991年〉)に挑戦して言い出したものです。

 エズラ・ボズラップは、トマス・マルサスの人口論は、古代の人間が常に準飢餓状態にあることを前提にして、食糧増産が人口増加を産んだ、と主張しているのですが、事実は逆で、人口が増えると食糧が足りなくなるので、人々は食糧を増産するのだ、と主張しました。そして食糧増産需要のことを「人口圧力」という言葉で表現したのです。

 しかし、小塩丙九郎の考えでは、両方とも間違っています。この両説に共通している点は、食糧の増産は人々の“選択”の結果決定されていたはずだというシンプルな真理を重要視していない点にあります。そしてどれほどの選択が可能かというのは、その時々の自然環境のあり様と農耕・狩猟技術の水準で決まります。そしてその選択は、その時々の政治体制など社会のあり様によっても左右されます。そして既に述べたのが、日本の実情であったというのが小塩丙九郎の見立てです。

 17世紀、水田大開拓によって日本の経済は大発展しました。発展する経済が緩やかなインフレを呼ぶ、これは誠に健全で自然な社会現象です。日本の歴史経済学者は原因と結果を取り違えている、というのが小塩丙九郎の主張です。若い皆さんは、これら3つの主張を知った上で、自らの判断で自分の日本史を描いてください。

 歴史学、或いは後に何度も触れることになる経済学は、教室や書物やテレビから一方的に教えられる教義ではなく、自らが自らの知見と心情に基づいて選び、或いは考え出すものです。そうした努力を厭〈いと〉わない人々が、民主主義を求める自立した国民を産むのだ、と小塩丙九郎は考えています。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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