小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

4. ベンチャーを産んだ江戸時代前期


この章のポイント
  1. 秀吉によって関東に封じられた家康は、大河川インフラ投資で農業経済力の増進に全力を尽くし、徳川幕府の農本主義の基礎を築いた。

  2. 全国の大名の大規模インフラ投資と、零細農民の必死の成り上がり努力で江戸前期の経済は成長し、自由な労働市場が身分格差を縮めた。

  3. 農業生産力の急成長を背に、鴻池、三井、住友などベンチャーが生まれ、大金融資本に育っていった。

  4. 大坂−江戸航路は、菱型廻船と樽廻船の熾烈な競争が展開された。


(1)家康の経済政策の理念

 秀吉の全国制覇は、1590年に小田原城に籠った北条氏直を降伏させて完成しました。そしてその直後、戦後処理として各大名に領地を加増する中で、家康(1543-1617年)にはそれまで治めていた三河国初め5国を明け渡して100キロほど東方にある武蔵国初め8国(いわゆる関八州)に移るよう命じました。これは秀吉が確立した石高制にもとづく“移封〈いふう〉”です(石高制についての説明は、ここ)。

徳川家康
徳川家康(狩野探幽画)
〔画像出典:File:Tokugawa Ieyasu2.JPG 〕

 これは家康にとって酷なものであった、と論ずる人が多くいます。統治し慣れた故郷から、様子の知れない、しかも京という朝廷と豊臣政権の中心地から遠ざけられたからです。ちなみに、豊臣政権の中心は、大坂にはなく、京に建てた聚楽第〈じゅらくだい〉に中央政庁があり、秀吉隠居後の秀吉と秀頼の居宅は京より少し南に建てた伏見城でした。大坂城が豊臣家の居城となったのは、秀吉の死後、秀頼が秀吉の遺言に従って伏見城から移ってからのことです。

 一方、家康を関東に移したのは秀吉の大きな失策だ、と論ずる人も多くいます。移封前の家康の領土の総石高が133万石であったのに対して、関八州の総石高は239万石と、秀吉の領地の石高である220万石を大きく超えるほどの巨大なものになり、それが後の家康の力の形成に大きく役立ったと考えるからです。

 もっとも、前に示した石高は、検地してみて知れたことで、当時の秀吉や家康がどの程度正確に、両者の治める領土の総石高を把握していたかはわかりません。それに実際の収入は総石高に税率をかけたもので、どの程度高い税率が課せられるかは、大名の器量次第であったので、秀吉は、新たな領地での統治は家康にとって容易ではなかろうと高をくくっていた可能性もあります。

 とにかく、秀吉は自分の領土と同じほどに巨大な領地を家康に与えたと考えていたでしょうし、家康もだから秀吉の命令に従ったのでしょう。但し、秀吉には年貢として得られる米の他に、全国の金・銀山や京、大坂、堺、長崎といった大都市や国際港湾から上がる収益がありましたから、経済総力で秀吉が家康を上回っていたことには間違いがありません。

 では、一体どの程度上回っていたのか?、残念ながらそれを知るに足る十分な資料は歴史学者から提出されていません。資料に現れる数字だけからなら、米年貢以外の歳入はそれほど巨大ではなさそうです。しかし、秀吉はその晩年に“金くばり”と呼ばれる大名たちへの大盤振る舞い(1589年;金子4,900枚、銀子21,000枚〈河内将芳著『落日の豊臣政権』〔2016年〕より〉)をしたことなどから、経済的に豊かであったというイメージができています。それでは豊臣家の財政が本当に豊かであったのか、それとも死の直前の秀吉の精神が弛緩していたせいなのか、それを判定する根拠はありません。

 しかし、2度にわたる征朝戦争失敗後の秀吉には、大きな経済的ゆとりがあったはずはない、と小塩丙九郎は考えています。豊臣家と徳川家の間に決定的に大きな経済力の差はない、家康はそう考えて豊臣家へのチャレンジを続けた、と考えるのが自然です。

 江戸に居城を建てた後の家康は直ぐに、総石高の急増を画策しました。鉱山や港といった経済資源を押さえられた家康が、経済力で秀吉に勝るためには、農地を大開発する以外にありませんでした。当時の関東平野は、縄文海進期後に水が引いて以来、その大半が沼や湿地で覆われていました(この地図を参照ください)。だとすれば、総合治水対策を講じて、それらの土地を乾かし、或いは埋め立てることが必要です。

 そこで江戸入府後直後に家康が命じたのは、北関東から江戸湾に流れ込む関東一の大河川である利根川の流路を途中でつけ替えて、太平洋に直接流れ出るようにすることでした。その工事には、結局22年を要しましたが、そのような大工事を含む農地開発を行った結果、徳川家の領地の総石高は、江戸入府から140余年後の1830年代には379万石にまで膨れ上がっていました。率に直すと、58パーセントの大成長です。

 家康はかろうじて生きているあいだに(死の2年前;大坂夏の陣)豊臣家を倒すことができましたが、自分の命が長らえなくとも、豊臣家に向かうのに必要な経済力養成の基盤を子どもたちに残そうとしたのではないか、そしてこれが徳川幕府が幕末期までついに農本主義的観念から脱却できなかった官僚体質の基礎をつくることになったのではないか、と小塩丙九郎は考えています。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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