小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔1〕日本の商人が示した慈善の精神

(7) 北前船廻船問屋の壮大な救民活動(前編)

 江戸時代に、幕府が大河川に架橋することを禁じたこともあり、道路交通が発達せず、遠距離輸送は専ら海運に拠っていました。そして、主な航路は太平洋側にはなく、日本海側にありました。1つには、房総半島周辺の海域の航行が技術的に難しかったとこと、2つには日本海側に特産品の産出が多かったことがその理由です。そしてその航路を走る帆船は、北前船〈きたまえぶね〉と呼ばれました。

北前船
復元北前船 みちのく丸
〔画像出典:Wikipedia File:Michinoku Maru 01.jpg 〕

 例えば、京への貨物を搬入するには、日本海に面した港から最後には敦賀(現福井県)に至り、その後山を越えて琵琶湖に入り、大津(現滋賀県)で再び陸に上げて京都に至るという具合でした。或いは、大坂に至るには、敦賀で荷降ろしせずにさらに西航し、関門海峡を通って瀬戸内海を逆行して大坂に至るという具合でした。この当時の主要航路上で問屋として物流を担った商人たちが北前船廻船問屋です。そして、これは、その廻船問屋が京や大坂の商人とは違った観念を持ち、行動をしていたという話です。

 北前船廻船問屋たちは、夫々の藩から特権を認められた豪商でしたが、その代表例である六代目内田惣右衛門(1787-1835年)らは、19世紀初頭(1803年)から半ば(1839年)までの27年間に、福井藩に13万8,600両の多額の税金を納めています。これを現在価値に直すとおおよそ280億円(1両の現在価値への変換率で定まったものはありませんが、米価を基礎とすると6万円、大工賃金を基礎とすると32万円と計算される〈日本銀行金融研究所による〉ので、その中間値の20万円として換算した場合の価値)の巨額に達しています。そしてこの金額のうち多くが、飢饉が発生したときに集中して救民対策費として支出されています(大塩まゆみ著『陰徳の豪商の救貧思想―江戸時代のフィロンソロピー』〈2012年〉より)。

 17世紀初頭までは、幕府や藩は、飢饉の際に餓死者が出ないように、米の備蓄に努めていたのですが、その後財政がひっ迫するに及んで、幕府や藩は領民の命を救うという義務を自ら放棄していました(その数少ない例外の1つが出羽国米沢藩の上杉鷹山の治世〈その説明はここ〉で、例外だからこそ有名になったのです)。そして、特権を与えている豪商に救民対策費の支出を要求したのです。そして、福井藩の最大豪商であった惣右衛門は、その要求によく応えました。

 しかし、惣右衛門の資金援助は、必ずしも藩命によるものだけではありませんでした。飢饉のない通常年にあって、藩より命じられることがなくても、神社の造営をして男の失業者のための仕事をつくり、綿等の紡績原料を貸与したり或いは無料で提供して女のための仕事を提供し、さらには仕事のない冬季には自家の屋根の葺き替えを行ったりと、施すのではなく、勤労愛好の精神を涵養したり、挙句に安い家賃で住宅を提供したりと、現代の政府が行っている様々な公共・福祉事業に匹敵するものを幅広く展開しました。

 天保の大飢饉(1833-35乃至37年)に際しては幕府はひどい財政難に陥っており、米価の高騰を利益を上げる好機ととらえた商家を応援するような始末であったのに対して、惣右衛門は、人口の5パーセントを超える難渋する人々(難儀人)に対して、御貸米、町之貸米、米別売場、煎粉施行、大麦施行、粥施行、炒粉施行と、ありとあらゆる形の食糧援助を行っています。これほどの商家による救民対策は、京、大坂の豪商の間には見られません。天保の大飢饉に当たって、大坂では幕府官僚が蔵屋敷にあった貴重な米を江戸への出世帰参を図るために江戸に廻送したことに対して、大坂の商人たちも無関心を決め込む中で、地方官僚である大塩平八郎がこれを諌めようとして反乱したといったようなことがあったほどです(1937年)。

 それとは際立った違いを見せる北前廻船問屋の姿勢は、16世紀末の大飢饉(その説明はここ)に対して盛んに救民対策を講じたイングランドのキリスト新教、ことにカルヴァニズム、に帰依するブルジョワたちのものとまことに似ている、と小塩丙九郎には思えます。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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