小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔1〕日本の商人が示した慈善の精神

(6) キリスト新教とは違う浄土真宗

 勿論、戦国時代の浄土真宗と中世ヨーロッパのキリスト新教、プロテスタンティズム、特にイングランドの市民革命を起こす力となったジュネーヴの神学者ジャン・カルヴァンが興したカルヴァニズム、とは違った点もありました。最大の違いは、キリスト新教では、神の意思は人間の知が及ばない高みにあり、自分が死後神の世界に召される“選ばれた者”であるかどうかは知るすべがないと考える点です(その説明はここ)。人々は、自分はそうあるはずだと信じて、信仰者らしく善なる行いを積み重ねるしかないのです。

 しかし浄土真宗では、阿弥陀如来を信じる者すべてに来世の救いがあるとしています。それは如来が信仰者に与えた約束、“本願”〈ほんがん〉、であると言うのです。一方、キリスト新教では、人はその信仰について神と契約を交わすのですが、それは人の神に対する約束です。似た契約であっても、その向っている方向が逆なのです。

 基本のところで、キリスト新教と浄土真宗の考え方は違っているのですが、しかし、現世での信仰者の行動は、現実場面では頗〈すこぶ〉る似るところが多いのです。禁欲主義、都市や地域の住民の間の同胞意識、それより発する他利の観念、それがさらに発展した慈善の行為などです。それらのことを勘案した上で、ベラーは、浄土真宗が日本の多くの宗派の中で最もキリスト新教、プロテスタンティズム、に似ていると評したのでしょう。そのことについて、小塩丙九郎は同意します。

 キリスト教は、厳しい民族生き残りを闘わねばならなかったユダヤの人びとの帰依〈きえ〉したユダヤ教にその源流を発し、さらに古代ローマの奴隷たちの間で創造された宗教です。元々支配者階層が創造し、人民統治の道具として使ったものではありません。日本の浄土真宗も、当時の支配者層が導入し、統治の道具に使った古代仏教(顕密仏教)に反発して、農民や商人を含む都市住民たちの側に立って、その救済の道を拓くことを目的として創始されました。

 政権と対立を続けた浄土真宗に対して、法華宗は、随分と早い時期から政権との折り合いをつけることに成功しています。室町幕府が成立すると、京への注目がにわかに高まりました。京でいち早く布教を展開していた法華宗の門流の中で最も有力であった日像門流では、14世紀半ば頃(1334年)、後醍醐天皇によりその本山である妙顕寺が勅願寺(ちょくがんじ;天皇や上皇の祈願に基づくと認定された寺)にされ、さらにその2年後に、室町幕府将軍家の祈祷所としての認定を受けるという具合に、時の政権にぴたりと密着しています。

 妙顕寺は、これをテコに自己の門流に地方寺院を組み込むことができ、また幕府や北朝の側も、妙顕寺を通じて自らのために諸国の末寺へ祈祷や法華経読誦をさせる窓口として妙顕寺を位置づけていました。つまり妙顕寺は、法華宗の各寺院と室町幕府をつなぐパイプとしての役割を担っていたのです(湯浅治久著『戦国仏教―中世社会と日蓮宗―』〈20099年〉より)。

 法華宗は、現世利益(げんぜりやく;現世〈この世〉で受ける様々な恩恵)の追求を専らとし、その教義の中で商人の営利行為を積極的に肯定しました。法華宗は、有徳人〈うとくにん〉と呼ばれる富裕な商人たちとの繋がりを強め、商人たちから寄進された祠堂銭〈しどうせん〉を受け取った上で、さらには商人たちが行った貸金について金利のうち1割部分については日蓮に、つまり法華宗人に、進上することを要求し(1605年、妙覚寺の日奥〈にちおう〉)、それを素に法華宗寺院自身が高利貸しを行っています。こうして、法華宗は、京の商人たちとまことによく親和したのです。

 この時代は、京は、応永の飢饉や応仁・文明の乱の戦乱により、飢えた人々が京に流入し、さらに飢えや災害を助長するという悲惨な状況にありました。そこで、時宗〈じしゅう〉や五山〈ござん〉の禅僧らは施行(せぎょう;貧しい者に施しを与えること)や食料の炊ぎ出し(施餓鬼〈せがき〉)を行ったりするなど、慈善救済を行っていたのですが、法華宗僧の場合、せいぜいが、為政者への法華経護持の要請に留まった、と歴史学者の湯浅治久は説明しています。商人を主な基盤とした法華宗と、商人をも支持者としつつも農民を主な基盤とした浄土真宗では、経済倫理について、随分と違った観念をもったのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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