小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔1〕幕府が招いた大経済破綻

(7) 幕府統治下で人口は減り、西南日本で増えた

 幕末に幕府官僚は混濁し、経済は停滞し、幕府財政は坂道を転げ落ちるように破綻に向かっていた、と小塩丙九郎は考えています。しかし、その見解は歴史学会では否定されているようです。

 多くの歴史経済学者は、幕末期に景気は拡大していたとか、人口が増加していたと説明しています。ある学者は、天保の改革が株仲間解散という明治の自由市場への指向の魁〈さきがけ〉であったとさえ主張しているのですが、それでは、どうしてそのような成長する漸進的な体制を持つ幕府が倒されなければならなかったのでしょうか? 歴史学者たちからは、その矛盾を説明できる論理は提供されてはいません。どちらの見方が正しいのか? もう少し検討の幅を広げて、科学的な議論を展開したいと思います。

 米価で代表される物価の次に、信頼性が高い統計は人口についてのものです。しかし幕府の全国統計は1846年を最後にされなくなりましたので、多少想像力を働かせながらできるだけ真実に迫るという努力をしなければなりません。もともと幕府の人口調査自体、現代の国勢調査のように厳密な方法に従って行われたものではなく、調査対象とならない者が多くありました。第1に、武士とその家族は調査対象外です。

 そして、これは地域によって差があったようなのですが、乳幼児、被差別民なども調査対象から外されていることがあったようです。江戸時代に乳幼児死亡率は非常に高かったので、一定年齢に達しない者を人口に勘定しても行政の基礎資料とする意味がないと考えられたのでしょうし、被差別民は人ではないし、米年貢を供出するのでもないから数えることは無用と考えることさら差別意識の高い地域もあったのでしょう。

 そこで、江戸時代の人口は、幕府の得た総人口に、歴史人口学者たちがそれぞれに修正率をかけたものを日本の総人口としています。ですから、人口学者によって報告する日本の人口は違います。だから例えば1600年頃の人口についても1,200万人だという者と1,500万人だという者がいて、どちらが正しいかは今もってよくわからないというのが実情です。そういう江戸時代についての人口統計の曖昧さを前提として、幕末のおおよその人口変化を見ていかなければなりません。

  • 幕末の日本は既に、1つの経済指標でとらえても意味はない国になっていた。

  • 没落し続ける大都市と東日本、躍進を続ける西南日本。そのコントラストをしっかりとらえないと、維新への道は見えてこない。

 けれども、そもそもこの時代に全国の人口が伸びていたかというように議論することは適当ではないのです。なぜならこの頃、人口の推移は地域によってまったく違ったものであったからです。そのことを示す代表例として米沢藩(現在の山形県の東南部;天保期22万石)と長州藩(防長2州;天保期89万石)の人口の変化を比べてみたいと思います。米沢藩は、1767年に上杉鷹山〈ようざん〉が家督を継いで藩主になって以来、途中隠居した後の時期を含めて1822年に死亡するまで、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディに称賛されるほどの善政を施し、破綻寸前であった財政を救って殖産興業に努めたことで知られています。そして、長州藩は、言うまでもなく、薩摩と並ぶ西南日本雄藩を先導する先進藩です。

 この2藩とも人口統計がよく残っていて、そして米沢藩は東北地方にあり江戸幕府の強い支配を受けている藩であり、一方長州藩は西南日本雄藩の一つであるという明確な地理的、そして政治的な違いをもっているので、比較することに大きな意味があると思います。

米沢藩と長州藩の人口推移
出典:米沢藩人口:吉田義信『置賜民衆生活史』国書刊行会 (1973年) 長州藩(防長2州)人口:石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』山五青写真工業 (2005年))

 2つの藩の1720年以降、つまり8代将軍吉宗の治世が始まった頃以降1850年までの人口の推移を1つのグラフに描いてみると、これが同じ日本の同じ時期に存在した地域なのかと思うほど、その人口変化の様子が違うことにまず驚かされます(上のグラフを参照ください)。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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