小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔1〕幕府が招いた大経済破綻

(8) 人口統計が示す幕府経済の衰退

 米沢藩は、気候が厳しいことに加えて藩政が混乱していたことにより、18世紀初頭から一貫して人口が減り続けていて、鷹山が藩主となった時には17世紀初頭より2割も人口が減っていました(マイナス20.2パーセント)。鷹山は、人事を刷新して藩官僚を活性化するとともに、殖産興業を行いました。と言っても、長い藩政停滞の後では有能な経済官僚を欠いていたため、漆〈うるし〉ろうそく製造などのために百万本植林計画を実行しようとしたものの失敗し、生糸製糸や米沢織生産は小千谷〈おぢや〉から少数の職人をリクルートして、かろうじて成功するといった具合でした。

 それでも何とか財政を破綻状態から持ち直し、藩官僚の態度も改善され、その結果人口は再び増え初めました(人口の推移についてはここを参照ください)。そのような鷹山による藩政は高く評価されるのです。特に、宝暦の飢饉(1753-57年)よりさらに厳しい気候条件にあった天明の大飢饉(1782-87年)において、米沢藩ではほとんど死者を出さず、人口減少率が宝暦の飢饉の時より低く抑えられているのは、鷹山の徹底した備蓄米政策の結果です。同じ時期の幕府がまったく無策であったことを思い浮かべると、鷹山の功績はさらに光ります。

 しかしそうした努力の結果、18世紀初頭の人口に対し、幕末(1852年)の人口は、18世紀初頭の規模をようやく取り戻したに過ぎません。そして一方、地球の小氷期がもたらす冷害に悩まされず、その上で米沢藩よりはるかに大規模な殖産興業を長期間にわたって進めた長州藩(防長2州)の幕末の人口は、18世紀初頭の1.5倍近くにまで増えています(幕末の長州の経済政策についてはここで詳しく説明しています)。鷹山の善政の効果は、残念ながら、長州の殖産興業施策がもたらした結果には、はるかに及ばなかったのです。

 上杉鷹山治世以降の米沢藩は、東北諸藩の中でずば抜けて優れた実績を残した藩です。それでも人口は18世紀初頭から幕末までまったく増えませんでした。そして視野を広げて、東北・関東地方全域について見てみると、同じ期間に人口は大きく減っていたのです(下のグラフを参照ください)。

幕末の地域別人口推移
出典: 鬼頭宏著『[図説]人口で見る日本史』(2007年)掲載データより作成
注意: 蝦夷地(北海道)の人口の伸びは特に大きい(455)ので、図示しなかった。


 歴史人口学者である鬼頭宏が示す地域別の人口データを読むと、米沢藩のある西奥羽地方だけは1721年から1846年の125年間に人口はわずかに(4パーセント)増えていますが、東奥羽地方は18パーセントも、さらに北関東地方は28パーセントも減っています。江戸のある南関東地方ですら、人口は5パーセント減っています。首都圏の人口が減る国家が、順調に経済成長した国であるはずがない、と素直に感じるのです。

 そして一方、西南日本雄藩を主導する薩摩、長州、土佐がそれぞれ属する南九州、山陰、そして四国の人口増加率は、24パーセント、24パーセント、27パーセントというように、全国の地方の中でトップ3を独占しています。現代世界では、大都市のある地域の人口の伸びがその国の中でいちばん人口の伸び率が高いのが常ですが、江戸時代後期には、首都圏の人口の伸び率はマイナス5パーセント、そして京・大坂という大経済都市のある畿内の人口は11パーセント減っているのです。このことは、これらの都市の経済が、この期間、停滞からむしろ衰退の方向にあったということを示唆しています。

 これらの地域別に見る人口統計は、学者毎の推計誤差を気にせずとも済むほどのとてもはっきりとした傾向を示していると思います。この時期の日本全国の総人口が伸びていたかどうかということよりも、幕府の直轄地及び幕府の勢力が強い京・大坂・江戸3都、関東地方、東北地方の人口が上杉鷹山の善政の影響が残る西奥羽地方を除いて減少していた一方で、西南日本雄藩の治める地域の人口が伸びていたというように、日本が明確に2極に分化していたということを知ることが重要です。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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