小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔1〕幕府が招いた大経済破綻

(6) 止まらなくなったインフレ

 以前に、比較的安定していた物価が、田沼意次が政権を握るようになってからデフレ基調となったということを説明しました(詳しくはここ)。そして意次の任期の後半期に起こった天明の大飢饉(1782-88年)によって物価は急騰し、そのデフレは一旦中断しました。しかし意次を追いおとした老中松平定信が行った寛政の改革(1787-93年)でも、結局は市場を自由化して楽市に戻すということをしなかったので、経済は成長せず、デフレ基調に戻ってしまいました(下のグラフを参照ください)。


幕府歳出予算
出典:飯島千秋著『江戸幕府財政の研究』(2004年)掲載データ等を素に作成。

 そうして幕府の赤字体質はますます悪化したので、困った老中水野忠邦は文政の改鋳を行います(1819年)。それまで使われていたのは1736年以降発行されていた元文小判ですが、その重さは3.5匁、品位(金の含有率)は65.7パーセントでした。それに対して忠邦が新たに発行した文政小判は、重さは3.5匁と変わらないのですが、品位は56.4パーセントに落とされていました。その結果、1両小判の金の含有量は2.30匁から1.97匁へと14パーセント減らされました。つまり、マネタリーベース(流通貨幣総額)は、何年かかけてですが、16パーセント増やされることとなったわけです。

 経済が成長してもいないのに、マネタリーベースを増やすのですから、市場には余分な貨幣が溢れてインフレになるはずです。そして実際にそうなったのです。それ以前のデフレ基調が、途端にインフレ基調に変わったのです。これは経済成長が自然に起こす良性の滑らかなインフレではなく、政権の不合理な財政・金融政策が引き起こす悪性のインフレでした。

 小判の改鋳が始まって16年経った1835に江戸四大飢饉のうち最後となる天保の大飢饉が襲います。元々インフレ基調であった時に米の供給が少なくなるのですから米価はあっという間に高騰し、基準として考えられていた1石当り銀60匁の2倍半の1石当り150匁にほぼ届くほどの価格になりました。この期間、京・大坂・江戸3都の商業者たちは、米価の安定化に努めず、逆にその期に乗じて投機的な動きに走りました。幕府のつくった不自由な市場で業績が一向に改善しないどころか、むしろ悪化する一方であった商家にとって、これは生き残りを賭けた行動であったのです。そして同じく財政赤字に苦しむ幕府も、高騰する米価は米年貢収入が増えてあり難いと考えたのです。経済倫理も政治倫理もあったものではありません。

 天明の大飢饉がおよそ3年間で落ち着くと、いつもそうであるように、市場は米価高騰の反動で一旦大きく値を下げ、大飢饉以前のときより低い水準に戻りました。しかし、基本的経済構造には何も変わりはないのですから、再びインフレ基調に戻ります。天明の大飢饉以前が幕末期第1段インフレであったと呼ぶことにすれば、これは幕末期第2段インフレです。

 米価が高騰したものの、それでも幕府財政が一向に好転しないことに困った忠邦は、大飢饉中の1837年7月に天保の改鋳に踏み切ります。品位は既に下限(56.4パーセント)の低さであったので、小判の重さを3.5匁から3.0匁へと下げました。そうして1両小判の金含有量は1.97匁からさらに1.70匁へと減りました。こうした度重なる貨幣の改鋳がインフレ傾向をますます強めたことは、間違いありません。

 こうなれば、〔不自由な市場→経済の停滞→幕府財政の悪化→出目を得るための貨幣改鋳→悪性インフレ→経済停滞の進行→幕府財政の悪化→貨幣改鋳〕という悪循環が続くことになります。実際、幕府は1859年にはまたもや小判の改鋳を行い(安政小判の発行)、1両小判の金含有量は1.70匁から1.36匁へとさらに引き下げられています。この頃の幕府の歳入に占める改鋳差益、つまり出目、の割合は7割にも達しています(1863年に68.7パーセント:大口勇次郎著『御用金と金札―幕末維新期の財政政策−』〈尾高煌之助・山本有造編『日本経済新聞社 数量経済史論集 幕末・明治の日本経済』〔1988年〕収蔵〉による)。今に例えるなら、政府歳入のうち7割は赤字国債発行によるものだという具合です。この先悪性インフレがどんどん進行し、ハイパーインフレに至るのは時間の問題であった、と小塩丙九郎は理解しています。

2017年1月4日初アップ 2017年2月18日最新更新(1863年改鋳差益の歳入総額に対する比率の根拠の明示〉
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