小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔1〕幕府が招いた大経済破綻

(5) 江戸時代後期の物価変動

 先に説明したように、吉宗の治世以来、日本の経済は、基本的にデフレ基調でありました。日本経済が成長を止めていたからです。そしてそれがやがてインフレ基調に転換し、最後には超高率のインフレ、つまりハイパーインフレ、に変わりました。

 日本の歴史学者や経済学者は、最後の部分だけ、つまり米国を初めとする先進国との通商が始まってから、日本と世界の金・銀交換比率の大きな違いが日本の貨幣制度に大きな混乱をもたらし、それがハイパーインフレを産んだということだけを説明しています(その様子と経緯についての詳しい説明はここ)。つまり幕末の経済混乱は強制された外国との交易の始まりが原因であると主張しているのです。しかしこの「日本被害者論」は、とても“不適切な”主張です。この項では、そのことを証明します。

 まず、田沼時代の少し前の頃から、つまり18世紀半ばから幕末までの物価がどう変化したかを見てみます。江戸時代には、現代のように消費者物価指数というような使い勝手のいい経済指標はもちろんつくられていませんでした。しかし代わりに、米価については商家が帳簿を残していてくれることから毎月の変動まで詳しい記録が残されています。そしてこの米価を今の消費者物価指数に代替してもいいだろうと思います。当時の物価の代表指標であり、実際のところ米とそれ以外の醸造商品(酒、味噌)など基本的な食材との価格格差も大きく変動することはなかったようですから。

 実際に記録された米価の推移は下のグラフに示した通りです。米価が大きく変動していることがわかります。江戸時代は地球の小氷期に当たっていましたので、特に東北地方を中心に冷害による不作、さらには凶作が頻繁に発生して作柄が大きく変動したため、そして幕府や諸藩の歳入の基礎が米年貢であったために、米価、そして諸物価は、米の出来によって大きく変化しました。またその変化は、京・大坂・江戸3都の商家が不作、凶作期に利益を稼ぎたいと投機的動きに走ったために、さらに大きく増幅されもしました。もっとも一部の地域の豪商は、それとはまったく違った慈善的動きをしたのですが、その様子とその重大な意味については、別のところ(ここ)で詳しく説明します。


幕府歳出予算
出典:岩崎勝著『近世日本物価史の研究』(1981年)掲載の大坂の米価データを素に作成。

 このグラフを見れば、最後の(1860年以降の)内外の金・銀交換比率の差が引き起こした国内経済混乱のところだけはその意味がはっきりとわかりますが、それ以外については、詳しい説明が必要です。ですから、上のグラフにこれを理解するために大いに役立つ情報を載せたものを下に示します。少し複雑になっていますが、先ずはここに示された情報を頭に入れることができれば、18世紀後半から幕末までの物価変動の基本的な部分についての意味を理解することができます。


幕府歳出予算
出典:飯島千秋著『江戸幕府財政の研究』(2004年)掲載データ等を素に作成。

 次の項で、このグラフについての詳しい説明を加えます。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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