小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔2〕官僚主導・民間癒着の管理市場ができた

(4) 意次の株仲間政策はデフレを招いた

 意次の株仲間政策は、それでは一体どのような市場を産んだのでしょうか? 意次に好意的な学者は、意次の在任期間中、物価が安定していたことを挙げ、それで庶民の生活も安定していたはずだと主張しています。それでは、実態を見てみましょう。物価の基準となる米価は、新田開発が進み米の生産量が増えたのにもかかわらず、17世紀中上昇を続けました。その間、農耕技術の発展により生産性も向上して、商品作物、加工食品、織物等の産業が発展して多くの者の購買力が向上したためだろうと思われます。経済成長に伴い緩やかなインフレが続くという状況にあったと言えます。

田沼時代の物価
出典:岩崎勝著『近世日本物価史の研究』(1981年)掲載の大坂の米価データを素に作成。

 17世紀末に元禄の飢饉が発生し米価が高騰したのち、落ち着く間もなく、18世紀初頭の1711年に改鋳され発行された銀貨(宝永四ツ宝丁銀)の品位(銀の含有割合)が低かったために貨幣価値が下がり、その結果、米価は再び激しく高騰しました。理由は記録に残されてはいませんが、明らかに多額の出目(でめ;新旧通貨の交換の際に幕府が得る利益)を獲得することが目的であったと推量されます。

 そのため、幕府は荒井白石の建議に基づき銀貨の品位を改めました(1714年)。しかし、実質GDPが増えていたのに貨幣の発行高が余りに大きく収縮したため、今度は極度のデフレに陥りました。そこで幕府勘定奉行であった大岡忠相〈ただすけ〉は、1736年に再び金銀貨を改鋳して品位を落として物価を旧の標準的な水準にまで戻そうとしました。この時幕府は新通貨を旧通貨と交換するに当たって増歩(ましぶ;より多くの通貨と交換する)を行い、出目をほとんど獲っていません(西川俊作著『日本経済の成長史』〈1985年〉による)。このデフレ対策に目的を限った改鋳は成功し、以降米価は1石およそ銀60匁の水準で長らく安定します。

 その後、享保の大飢饉(1732年)、宝暦の飢饉(1753〜27年)と相次ぎましたが、それでも米価は1石当たり精々銀80匁にしかなりませんでした。先の銀貨改鋳の時に4倍近い米価高騰があったことに比べれば、僅かだと言えます。

 このように、意次が政権を握る前から物価は安定していました。そして田沼時代に入ると、物価は安定するというより緩やかに下落しています。つまり、デフレになったのです。これは、意次の意図に反した動きです。意次は株仲間をカルテル組織に変えて、つまり物価を高値で安定させて商人たちに利益を稼がせ、そのうちの一部を幕府財政に繰り入れようとしたのですが、実際には物価は下がってしまったのです。

 田沼時代の末期に物価が高騰していますが、これは1782年以降に起こった天明の大飢饉により米の供給が極端に少なくなったからで、意次の経済政策のありようとは関わりがありません。

 ですから、意次の経済政策は、デフレを招いたのです。この状況や理由を説明する歴史学者も経済学者は見つかりませんが、小塩丙九郎の解釈はこうです。つまり、意次は市場管理を強化して市場から競争を奪った、その結果、市場の活力がなくなって経済が縮小した、消費需要が減退して、そのことが物価の下落を招いた、ということです。

 後で意次の貨幣政策を紹介しますが、意次は金・銀貨についての改革を行う一方で、庶民が日常使う少額貨幣である銭(ぜに;銅貨)の金・銀貨に対する交換比率を下げています。その分庶民の購買力は減退したのですから、それも消費市場を冷えさせることに貢献したはずです。

市場の自由を奪えば、経済成長は止まり、物価上昇もしない。

現代のどこかの国のあり様によく似ている。

 これ以外に、田沼時代のデフレを説明する合理的理由はありません。「物価が安定した」のではなく、意図に反してデフレになってしまったのです。これは意次の市場管理策が失敗したことを示していますし、歴史経済学者の主張に反して、沈滞した経済状態で庶民の生活は安定するどころか困窮したはずです。

 要するに、意次は商人たちから金を巻き上げる方法を一生懸命考えたのですが、消費市場に対する政策効果ということをきちんと予測できなかったのです。或いは、実態は、そもそもそのようなことは考えもしなかったのではないでしょうか? 

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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