小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔1〕吉宗が官僚管理市場をつくった

(7) 享保の改革の歴史的意味

 吉宗が行った一連の行政は、“享保〈きょうほ〉の改革”と呼ばれています。享保とは1716年、つまり吉宗が将軍の座に就いた年から1736までの20年間の時代の呼称です。吉宗自身は、それからさらに10年間、1745年まで将軍の座にあり続けました。ところで、享保という年号は吉宗が将軍職に就いたので幕府から朝廷への事実上の指示により年号が改められたのですが、以降年号は天皇の交代とともに改められる伝統が続けられています。

 1735年に年号が元文〈げんぶん〉と新しくされたのは、1736年に中御門〈なかみかど〉天皇に代わって桜町天皇が即位したからです。何れにしても、吉宗の将軍職在位29年間のうちおよそ3分の2、そして重要な改革を行った時期がそこにあったので、吉宗が主導して行った幕府の行政改革は“享保の改革”と呼ばれています。

 既に前項(ここ以下)で見てきたいくつかの行政の他に、吉宗が在位中に行った改革の中でとくに重要なものは、足高〈たしだか〉の制、相対済令〈あいたいすましれい〉の2つでしょう。

 足高の制とは、低い家格の家の武士が高位の職に就いたとき、家格に応じた通常の俸禄の他に役職に相応しい俸禄との差を在位期間中に限って支給すると定めた制度です。このことによって、身分の上下を超えて、低い家格の武士が特に優秀であったと認められたときに、高位の職に、最終的には最高職である老中にまで、就ける道が開かれました。沈滞する官僚組織に、新しい風を吹き込む人事を可能にしたのです。次の項の主人公である田沼意次も、この制度があったから老中にまで登りつめられました。そしてその意次が、幕府の息の根を止める大事をなすことなります。


 相対済令は、経済が活発になって商人間での争い事が増えたのですが、それを勘定奉行がさばききれなくなったため、幕府はそれに関わらず当事者同士の解決とせよと定めたことです。小塩丙九郎は、このことは幕府官僚が犯した重大な誤りだと考えています。商業を発展させるには、政府が商法を定めて商行為の正当性を判断する客観基準を設けて、誰もが信頼できる契約行為を行えるようにすることが肝心です。政府がそのことから手を引くとは、結局のところ業界組織や、さらに具体的には業界の有力者が、恣意的に争いの判断をすることを許すということになってしまいます。

 結局のところ、既得権者が守られて弱小商業者が大きく成長することは著しく困難になります。幕府官僚は、市場管理は直接には商工業者の半自治組織である株仲間にさせ、徴税も個々の商工業者から直接にではなく株仲間で一括したものを手間をかけずに徴収していました。そして徴税その他株仲間の定めたルールに違反した者の処罰も、株仲間の中で勝手に行うこととしていました。言ってみれば、談合組織が政府公認の懲罰権をもっていたわけで、これで公正な商取引が行われることを期待することは無理でしょう。相対済令は、このような業界組織の勝手をさらに法的に強化したという働きをもっている、と小塩丙九郎は理解しています。

 司法事務が煩雑になるからという理由にも、うなずけません。当時の武士の勤務日数は少なく、さらに1日の勤務時間も数時間しかなかったのですから、それが重大な事務であると認識すれば、勤務時間を少し長くすれば対応できたはずです。或いは武家の次男以下は“部屋住み”であり、公職についてはいないのですから、それらに若干の俸禄を与えて働かせることもできたことでしょう。

 商人同士の争いに関与する暇がないというのは、いわば口実で、実際のところは幕府官僚は商業活動に直接関与することはしないという意思表示であったと思います。しかし、そのことは官僚から経済実態についての情報を得る機会から遠ざけ、適切な経済政策を企画も実行もできないこととなりました。そしてその経済の実態を知らず、経済政策を企画・運営できないという幕府組織のあり様が、19世紀半ばに至って幕府崩壊の直接の原因となります(詳しい説明はここ)。


 吉宗が行った重要事として、洋書の解禁がよく指摘されます。吉宗自身、天文学に凝っており、本丸の中に天文台をつくって自ら観測したと伝えられています。1720年、吉宗は蘭学書(オランダ語で書かれた洋書)の輸入を許可しています。ただ、対象となった分野は限られており、天文学の他、医学や薬学、或いは地理学などについての図書が解禁されたようです。後に杉田玄白が『解体新書』を、平賀源内がエレキテルについての発明を、或いは伊能忠敬が日本地図を描いたのは、この蘭学書解禁があったからこそのことでしょう。そこで、吉宗の進取性が高く評価されているのだと思います。

 しかし、吉宗の生きた18世紀半ばといえば、ヨーロッパで中世の産業革命(詳しくはここ)がなされてから既に数世紀を経ています。そして中世の産業革命の中で、ヨーロッパは鉄の大量生産技術、水車を強化して紡績などの大型工場を機械力で動かす仕組み、そして大航海を成功させた造船、海岸線から離れて航行する技術などを得ています。しかしこれらの技術が吉宗の時代以降も日本に導入されていないのは、吉宗や幕府官僚が産業社会の発展に繋がる情報を伝える図書は選んで輸入禁止したとしか考えられません。


 吉宗は農本主義者であり、農耕と無縁の経済や産業が発展することを意図して拒み、徳川幕府政権の安寧、引いては自分たち自身の保身、を最優先したということでしょう。そして吉宗は当時の幕府官僚の総意を代弁していたということでもあるのでしょう。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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