小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔2〕官僚主導・民間癒着の管理市場ができた

(1) 田沼意次の登場

 吉宗の次に幕府の政策を大変更したのは、老中田沼意次〈おきつぐ〉です。意次といえば、「水清ければ魚棲まず」という川柳で揶揄〈やゆ〉される汚職官僚というイメージが強いのですが、1955年にアメリカの歴史学者であるジョン・ホールが、意次は“近代日本の先駆者”であると書いてから(“Tanuma Okitsugu, 1719-1786, forerunner of modern Japan”)、日本の歴史学者の中に、汚職官僚というのは後継者が貼った間違ったレッテルで、意次は偉大な重商主義者であったと主張するものが多く現れました。そしてその勢いは、今でも止まっていません。

田沼意次
田沼意次
 〔画像出典:Wikipedia File:Tanuma Okitsugu2.jpg〕

 歴史学者の大石慎三郎は、その著書『田沼意次の時代』(1991年)の中で、意次を糾弾する「史料はすべて田沼意次が失脚した後に書かれたもので」、「これまで紹介されてきた『悪評』はすべて史実として利用できるものではない」と強く主張しています。

 しかし個別具体の収賄行為があったかどうかは別にしても、意次はやはり徳川家や官僚個人の経済的利得のみを考えた高級官僚で、幕府の政策を誤らせ、結果として19世紀半ばの大経済破綻と、そしてそれが基礎となった1868年に倒幕の原因をつくった人物である、というのが小塩丙九郎の主張です。時々日本の歴史について、びっくりするような新説を著して、多くの日本の学者がそれに倣うということが起こります。例えば、別のところ(ここ)で紹介した「江戸時代の丁稚は終身雇用制であった」と主張したジェームズ・アベグレンもその1人ですが、ホールもまたそれと同じです。

 歴史学を様々に振り回して、「面白い!」と叫ぶ歴史学者もいますが、時代の本質を見抜く努力を重ねていれば、そのような間違いを防ぐことができるのにと思います。以下、当代の歴史学者と小塩丙九郎と、その何れの主張が正しそうかは、この項を読んでからの若い皆さんの判断に委ねます。

 吉宗が将軍職を辞してから6年後の1741年に、吉宗に連れられて紀州からやって来て旗本になった田沼意行〈おきゆき〉の長男である意次(おきつぐ;1719-88年)は、1732年に吉宗に拝謁を得て、翌々年に16歳の年齢で第9代将軍家重づきの小姓(こしょう:雑用係)に任ぜられています。以降出世を繰り返し、1767年(48歳)に第10代将軍家治〈いえはる〉の側用人(そばようにん;いわば将軍筆頭秘書官)にまで出世しています。この時期より後、家治と意次が連携して幕政を進めていくこととなりました。

 そして1769年(50歳)で、意次は出世街道を昇ぼりつめ、老中の職についています。側用人としての役目も兼務し続けましたので、言ってみれば総理大臣兼将軍秘書という地位にあったわけで、これで意次の天下が完成したことになります。吉宗が定めた足高の制(説明はここ)が最大限に機能した結果です。“田沼時代”はいつからかということについては諸説ありますが、小塩丙九郎としては、1770年頃から老中を免職となった1786年までの20年間弱の期間として理解しています。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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