小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔2〕官僚主導・民間癒着の管理市場ができた

(2) 官民癒着の市場管理体制が築かれた

 以前にも紹介したとおり、吉宗の享保の改革の一環として行った増税(公称“四公六民”から“五公五民”へ)によって幕府財政は大いに改善したのですが、そのことは天領(幕府直轄地)を含む全国で激しい百姓一揆の頻発を招く結果となったというも先に説明したとおりです。1740年代の10年間におよそ300件の百姓一揆の発生が記録されていますが、これは江戸時代全期間での合計記録件数の1割に当たる多さです。そうして公称税率は変えないままに、実効税率を依然の3割に戻されました。

 この間、多くの一揆首謀者が処刑されました. 農民たちは、文字通り、自分たちの権利と生活を血で購〈あがな〉ったのです。この頃の一揆は、百姓にとってもきつい闘いでした。平均すると6件の一揆うち1件で死罪にされる農民が出ました。一揆を行うに当たって、農民は武器をもたず、幕府や藩も参加者を極刑に処することはなかったというようなことも言われますが、それは江戸時代後期に至ってのことです(例えば天保期〈1840年代〉では20件のうち1件しか死罪人は出ていません。下のグラフを参照ください)。

一揆と死罪
説明:元和期とは江戸時代初期、享保期とは吉宗の時代、天保期とは1840 年代頃。
出典:青木虹二著『百姓一揆総合年表』(1971年)掲載データを素に作成。

 そのような時期に将軍家治〈いえはる〉とともに政権についた意次は、農民から年貢米をそれ以上とることをあきらめ、吉宗引退後に再び悪化した財政を改善するため、都市の商工業者から税を徴収することを考えつきました。

 吉宗の行った享保の改革により、株仲間の結成が幕府により進められましたが、それは物価高騰に際して価格の抑制を業界単位で取り締まるための規制的な性格を持つものであり、幕府と株仲間の間に経済的な関係は大きなものはありませんでした。正確に言えば、商工業者は公共事業に労働力を提供するという間口の広さに応じて支払う役負担はありましたが、信長・秀吉政権以来の楽市の考えに基づき、米によってであれ、銀によってであれ、敷地の大きさに応じて支払う年貢支払は免除されていました(“地子免許〈じしめんきょ〉”といいます)。

 しかし、田沼は商工業者には株仲間に入るのに必要な株札を発行する代わりに、権利取得代金としての冥加金〈みょうがきん〉を徴収するとともに、毎年の売上に着目した運上金〈うんじょうきん〉も納めさせました。冥加金とは、株仲間に加入できることを証明する株札を公布するに当たって幕府が商工業者から徴収する、いわば権利金です。一時金のはずなのですが、実際には数年ごとに株札が更新される度に徴収され続けました。田沼たちは、この冥加・運上金収入をもって年貢米収入の不足を補おうとしたのです。


 そして商工業者には、その見返りとして業務独占権の他、価格を株仲間で決めることを認めました。吉宗がつくった株仲間は、幕府の指図により物価の高騰を抑える目的をもっていたのですが、今度は商工業者自身が価格を決めていいのですから、当然価格は高めに設定されることになります。商工業者の利益はその分増えるので、そのうちの一部を幕府に冥加金や運上金として支払っても損はないだろうというわけです。現代風に言えば、政府公認のカルテル組織を政府自身が商工業者に設立と運営を認め、高い利益率を保証する代わりに、一定の法人税を支払えという政府と業界のもたれ合い体制です。

町触の件数
出典:松本四朗著『商品流通の発展と流通機構の再編成』掲載データを素に作成。

 田沼時代に入って、幕府が出す流通統制についての町触(まちぶれ;法令のこと)の件数が急増しています(上のグラフを参照ください)。そしてその特徴は、吉宗の時代に出された触書の内容が主に物価統制であったのに対し、田沼時代に出す出されたものは主に、例えば仲間外業者の直買いを禁止する、或いは仲間への加入を勧告するといったように、株仲間組織を維持・強化するものとなっています(松本四朗著『商品流通の発展と流通機構の再編成』(『日本経済史大系』〈1965年〉収蔵)による)。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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