小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔2〕官僚主導・民間癒着の管理市場ができた

(3) 市場管理は拡大・強化された

 意次が株仲間組織をカルテル組織に改竄〈かいざん〉してしまったのは、幕府に株仲間からの冥加金と運上金という税金を納付させることが目的であったのですが、それを京・大坂・江戸3都の商人たちが受け容れた背景には、この時期、3都の株仲間、特に大問屋は、幕府直轄地以外の地にある新興地方資本の挑戦を強く受けており、株仲間による経済管理をさらに強く求めていたということがあります。

江戸時代の経済2元体制
  • 京・大坂の銀本位制と江戸の金本位制

  • 幕府直轄領地内と幕府の勢力圏である東日本での不自由な経済体制と、京・大坂資本に従わない地方新興資本

 吉宗の市場管理政策は幕府天領内に限り有効であり、特に西南日本にある諸藩にはその規制は及んでいませんでした。それらの地域では、都市周辺の農村部で家内工業による紡績や木綿織物の生産が次第に盛んになり、そこで活動する地方資本が力をつけつつあったのです。これらの資本は、統制下にある3都の商人たちを介して取引することを好まず、直接に全国市場に対する販路を拡大しつつありました。そのため、全国市場で力を失いつつあった3都の商工業資本にとって、市場を管理して利益を保証するという幕府官僚のもちだした案はあり難かったのです。

 つまり、市場の自由を奪えば経済活力は低下しして外部資本に対する競争力を失う、そうして沈滞した資本を守るために市場規制をさらに強め、利益を保証する、そしてその一方で幕府官僚たちの収入源を新たにつくる、これは現代のどこかの国で行われている市場管理政策とまったく同じ構造をもっている、と若い皆さんは思いませんか? そうです、官僚が民間資本と癒着しながら新規参入を妨げ高価格を維持するという効果をもつ市場管理を行い、官僚と既存資本の安寧を図るという日本の伝統的経済構造がこのとき生まれたのです。

 田沼はそれ以外にも多くの経済施策を実行しました。屋敷の売買を管理する制度、綿の売買を統制する制度、米価の下落を防ぐための諸藩の米の空売り(収穫前の米を問屋に売る)の禁止などです。これらは大規商業者の商権を拡大するものであり、零細金融業者などの業務はより困難になりました。

 現代の多くの歴史経済学者は、田沼は経済政策を熱心に遂行した重商主義者だと言って評価するのですが、それは自由な市場を創造して経済活動を活発化させるということではなく、大規模商業者の利益拡大のみを追求した管理経済体制の構築であり、そこで限られた特権者が得た収益の中から幕府への冥加・運上金を徴収して、幕府財政を富ませるという効能を持っているという一点においてすべての政策は共通しているのです。

 この一方で、既に示したように消費者である百姓や町人の利益は阻害され、米の空売りを禁止された諸藩の財政も困難に面しました。また、浅間山噴火(1783年)による関東平野の火山灰被害や東北諸藩を中心とした天明の大飢饉に際して、幕府は、幕府と江戸を守ることを専らとして、それまでの慣習に反してそれ以外の地域に対する援助対策を放棄しています。財政が破綻しかけていた東北諸藩は、領民の飢餓を見ながらそれでも米を江戸に廻送しているのですが、それほどまでに追い詰められた東北諸藩に対し、幕府は救援の手を一切さし伸べてはいません。

 こうして、幕府は一方では諸藩の利益を無視し、他方では大商業者と連携して消費者の利益を無視しました。そしてひたすら、幕府の財政改善を図ったのです。

市場の自由を奪えば、保護されたはずの資本が力をなくし、やがて破綻する。

その教訓は、このときより得られ続けている。

 しかし保護された資本はますます競争力を低下させ、やがては外部資本の攻勢の下で破綻に追いやられることになろうということは、容易に想像できることだと思います。そして実際にそうなったのであり、そうして経済力を失った幕府政権がやがて、経済力を次第に拡大した西南日本諸藩に倒されたというのが、江戸時代後半期の日本の歴史であるということを、小塩丙九郎の歴史・経済データバンクでは証明しようとしています。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page