小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


この章のポイント
  1. 幕府が市場の自由を奪い、産業技術開発を拒否したことは、次第に日本経済の活力を奪い、京・大坂・江戸3都は疲弊し続けた。

  2. 停滞経済はデフレを招いていたが、幕府官僚が質を下げた通貨を大発行し続けたため、市場はインフレの度を深めハイパーインフレ直前の状態に至った。

  3. 幕府官僚は混濁し、人口調査さえ指揮できない状態に陥った。

  4. 天明の大飢饉(1830年代)が発生した頃には、幕府財政は破たん状態にあり、米年貢率を上げることと通貨の質を下げて改鋳差益を得る以外に財政を維持する方法はなくなっていた。

  5. 田沼意次が官僚主導・官民癒着の管理市場体制を構築して3四半世紀後の1850年頃、幕府財政と日本の経済体制は大破綻した

  6. 幕府経済の大破綻は、内外金・銀交換比率格差が引き起こしたハイパーインフレによって顕在化した。


〔1〕幕府が招いた大経済破綻

(1) 幕府官僚が拒否した外来技術導入

 徳川幕府の官僚たちがヨーロッパが11世紀から13世紀にかけて起こった中世の産業革命(詳しい説明はここ)の成果を活用した第1次農業革命と、16世紀にさらなる技術開発により起こした第2次農業革命により人口の成長と経済発展を続けた(詳しい説明はここ)のに対して、日本では、戦国時代の戦国大名たちの努力と江戸時代に入って農業インフラ投資余力が出てさらに湿地や沼を干拓した結果16世紀から17世紀にかけて人口が大いに伸び、特に徳川時代に入ってから初めの1世紀間は人口も伸び、経済も成長した後、干拓する余地がなくなった18世紀には人口も経済もまったく伸びなくなりました(下のグラフを参照ください)。


日本とヨーロッパの人口><br>

<div align= 出典:以下の資料に掲載された人口を素に10年毎の人口を推計してグラフを作成。
  日本の人口:鬼頭宏著『人口で見る日本史』(2007年)
  ヨーロッパの人口:T.G.ジョーダン著『ヨーロッパ文化』(1889年)

 18世紀にはまだ地球の小氷期は続いていましたが、技術開発によって農耕技術が進んだヨーロッパで人口が伸び続けていたのに対し、西ヨーロッパより北方にあるわけではない日本では、年によって気温が僅かに下がると冷害が発生したりすると忽ち凶作となり、時によっては大飢饉が発生しました。近世最大の飢饉と呼ばれる天明の飢饉は18世紀終わり(1782〜87年)に起こっており、さらに江戸3大飢饉と呼ばれるもののうち最後のものは19世紀半ば近く(1833−39年)の天保期に起こっています。

 ことに、気候条件の厳しい東北地方は、小氷期の最後の時期に当たる18世紀に入っても毎年のように凶作が発生しています(南部八戸藩の江戸時代の凶作の歴史について下のグラフを参照ください)。凶作は、農村内の貧富の格差を拡大しました。不作の年を超えるために借金を余儀なくされる小農民は、凶作が長引くと返済できなくなり、遂には農地を手放さなくてはならなくなったからです。そして凶作の影響の違いによって、地域間の貧富の格差も拡大しました。


南部藩の飢饉
出典:二本柳正一著『南部八戸藩飢饉一千年小史』(1978年)掲載データを基に作成。

 フランス教養人であるジャン・ギャンペルは、「18世紀の産業革命が実現可能となったのは、冶金の分野で中世になされた技術革新のおかげである」と主張しています(ヨーロッパの“中世の産業革命”についての説明はここ)。水力(効率を上げた水車)を利用した鞴〈ふいご〉のおかげで炉の温度を1,200度まで高めることができるようになり、鉄の大量生産が可能となりました。14世紀末のことです。ちなみに、日本で鉄の大量生産(たたら製鉄)が始まるのは室町後期(16世紀)とされており、その時には6人程度で昼夜を徹して数日間踏み続けなくてはならない往復運動踏み鞴が使われています。鞴は近世に入って2人で踏めるもの(天秤鞴)に改良されましたが、しかし、近世が終わるまで遂に機械力が導入されることはありませんでした(葉山禎作編中央公論社刊『日本の近世 第4巻 生産の技術』〈1992年〉より)。

 中世ヨーロッパで造られた鉄は、戦闘用の甲冑〈かっちゅう〉や馬の蹄鉄としての利用価値が高いので、またたく間にヨーロッパ中に普及しました。或いは、石造建築の補強材になり多種類の金具や様々な形状と寸法の釘が造られました。さらには、鍬〈くわ〉の先に鉄片が付けられるようになりました。鍬全部を鉄で作るのは高価過ぎるためでした。この鉄片を付けた鍬がなければ、西ヨーロッパや北ヨーロッパの処女地や森林が首尾よく開墾されることはなかったろうとギャンぺルは言いいます。

 鉄に続いて銀山が開発されましたが、当時は銀の方が金より希少であったため、銀はヨーロッパの貨幣となりました。兵器に、農具に、建設用具に、そして貨幣材料に、鉄や銀の冶金技術が活用され、それが中世ヨーロッパの成長を支え、その先に18世紀の産業革命があります。産業「革命」というと、すべてのことが突然に、過去を否定した動きとして現れるという響きを持っていますが、小松芳喬〈こまつよしたか〉をはじめ多くの経済学者が18世紀の「産業革命」は突然に起こったものではないと説明しています(産業革命についてはこの章に詳しい説明があります)。イギリスの歴史経済学者であるエプレーム・リプソンは、産業革命は「数世紀に亘る着々とした進歩のクライマックス」であると書いています(小松芳喬著『英国産業革命史』〈1991年〉より)。


 ギャンペルの言う「中世の産業革命」は「18世紀の産業革命」への道の先走りであったと言っても大きな間違いではないでしょう。ヨーロッパの中世は、日本の近世(江戸時代)のように停滞してはいません。オランダと通商を行い、オランダ人と多くの会話を交わし、多くの蘭学書を初めとするヨーロッパの図書に接する機会があった幕府の役人が、ヨーロッパの機械式鞴〈ふいご〉のことを知ることがなかったとは、とても想像できません。しかし、幕府官僚は、意識して機械式鞴の技術導入を拒否したに違いないのです。そして社会が進歩しないことと引き換えに、彼らは、徳川幕府政権の安泰を手に入れようとしたのだと考えるしかありません。中央で権力を握る官僚は、本能的に進歩より安定を望むものなのです。徳川幕府の官僚たちも、その例外ではありませんでした。


〔参考〕日本の「勤勉革命」論への反論

 歴史経済学者の速水融〈はやみあきら〉は、日本は産業革命という経路ではなく勤勉革命とでも呼ぶべき日本固有の産業発展を遂げたのであり、ヨーロッパ人は家畜と言う資本を投じて農業生産力を増したのだが、日本は労働力を集中投資して農業生産性を上げたのだと説明しています(速水融著『近世日本の経済社会』〈2003年〉より)。

 しかし、ギャンペルの説明によれば、馬の荷物の牽引力は古代ローマから中世に至る間に5倍に増えています。古代ローマでは0.5トン以上を馬車が積むことは危険であるとして法律(438年のテオダシウス法典)で禁じられていましたが、中世の2頭立て馬車は5トンの石材を積んで運んでいました。これは、中世ヨーロッパ人が馬の牽引力を十分に引き出ことのできる馬具と蹄鉄を開発できたからです。そして、蹄鉄を取り付ける釘が考案され、それらすべてを大量生産する仕組みが生まれました(詳しい説明はここ)。

 ヨーロッパでは、家畜も機械と同様に、技術開発の対象となり、それを活かすために産業全体が発展しました。例えば、1254年のイギリスのケント州トサセックスにまたがる地域に設けられていた“冶金コンビナート”(ギャンペルはそう呼びます)は、年間3万個の蹄鉄と6万本の釘を生産していました(ただ、ギャンぺルも、蹄鉄と釘の比率については首をかしげています)。

 さらに、牛ではなく馬を使うことにより農耕効率が5割増えた上に、馬の飼料(燕麦)を得る工夫を契機に三圃〈さんぽ〉式農業(冬小麦と馬の飼料である春作の燕麦と休耕を順番に続ける耕作法)が産み出されて、結果土地が肥沃になり、農作業が年間を通して平準化され、それらのことは農業生産性をさらに増しました。

 日本には牛馬という言葉がありますが、ヨーロッパ人にとって馬は牛よりはるかに効率的な“農耕機械”であると言っていいと思います。だから、一部の燕麦の栽培が難しい地域以外に住むヨーロッパ人は、馬を増やして牛は農地から追い出しました。ヨーロッパの農業革命をもたらした馬を単なる資本、つまりお金があれば手に入れられるもの、と理解することは、適切ではありません。

 また馬に牽かせる車のついた犂〈すき〉には様々な工夫が施され、広大な未開の森林や沖積平野の開墾を可能としました。馬の導入は、このような一連の中世の大農耕・産業技術開発の要〈かなめ〉の部分にありました。繰り返しますが、これは近代18世紀の産業革命のことを言っているのではなく、日本の江戸時代より数世紀も先立つ中世ヨーロッパの産業革命にまつわる話です。


 吉宗や意次の市場管理政策は、ヨーロッパの中世を学べばできたはずの農業発展をも拒否したことになるのです。農村が疲弊し、そしてその消費力が必要であった都市は、農村以上に疲弊しました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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