小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔2〕官僚主導・民間癒着の管理市場ができた

(9) 意次は一体なにを残したのか?

 意次を倒して(1786年)老中に就いた松平忠信が行った寛政の改革(1787-93年)は、財政の安定を図るために武士の綱紀を引き締め、浪費をなくすことを目的としたものでしたが、これは意次の行った政策の多くを否定したものであり、その一環として株仲間の解散が命じられ、経済政策も抑制されたと説明されることがよくあります。しかし、これは事実に反しています。意次が乱立させた株仲間のうち、問題の多かった株仲間は解散させられましたが、そのすべてが解散を命じられたわけではありません。そもそも、幕府財政の悪化が進む中で、幕府が株仲間を構成する大商家と密着して、それらの業務独占を認める代わりに冥加金と運上金を得ることは、幕府財政を維持する上で欠かせなくなっていました。


 寛政の改革の期間中に出された町触(まちぶれ;法令のこと)のほとんどは、意次の時代に出されたものと同じ内容となっています。そして、菜種油や綿の株仲間、或いは先に紹介した(ここ)菱垣廻船業者による業務独占は、むしろ強化されています。そして幕府は、増額された運上金を手にしています。さらにこの傾向は、これに続く大御所時代(11代将軍家斉が治世した1780年代末から1830年代で寛政の改革と天保の改革の間に当たる時期。家斉は隠居した後も実権を離さなかったことから、後の人が大御所時代と呼ぶようになりました)にさらに強くなっています。

 意次の政策は、意次個人のものでなく、意次を老中に抜擢した徳川家治〈いえはる〉の政策を実行したに過ぎないとの見方もありますが、この項を書くに当たって、その真偽の程はそれほど重要ではありません。重商主義に転換したと評価される幕府の政策が、幕府の私的利益の追求のためだけにあり、それに大商業者が追随したと言えれば、それで十分です。

 意次を革新的な経済政策家として高く評価するよう歴史認識を修正すべきであると主張する歴史経済学者も国内外に多いことについては、既に触れたところですが、意次や家治には、幕府財政を豊かにすること以外に興味があったとは思えません。無税で放置されていた業種から新たに税金を効果的に徴収する仕組みを考えついたということに過ぎません。豚は太らせてから食べるのがいい、2人はそう考えたのでしょう。家治が死去(1786年)すると、直ぐに意次は失脚します(同年)。しかし、この株仲間強化政策は、転換されなかったことは既に述べたとおりです。この頃から、幕府の経済政策の正当性は失われ始めたというのが、私の見方です。国家という公より幕府と言う私を、そして幕府益より官僚個人益を優先する風潮が強まりました。

 18世紀半ば以降、他地域で商品作物の生産、食品加工、高級織物製造などが始まると、勢い地方の商工業者の勢いが増し、19世紀に入る頃には大坂の商工業者は大いに困窮する事態に至っていました。商品作物工作や食品加工、或いは織物や陶磁器製造に関する技術は秘匿されていましたが、時間とともに次第に地方に流出したからです。幕府がどれほど強権で管理しようとしても、万国共通の経済原理を完全に抑え込むことはできないことは、後で事実が証明することになります。


 意次と家治の政策の結果、幕府の財政はすこし改善しました。しかし、幕府が治める地域の経済力が回復したわけではありません。それはむしろ弱体化を続けたのです。意次が行ったことは、経済成長はさせないままに、市場を管理することによって大商業資本の利益率を確保して、その一部を幕府歳入に回すという経済サイクルをつくったことです。当座、幕府の財政は改善されますが、経済が成長できる構造に変えたわけではありませんから、幕府の管理が及ばない、特に西南日本を中心とした諸藩領土内にある振興資本、あるいは諸藩の行う専売事業の攻勢を受けて経済はやがて縮小に向かうことになります。そして幕府財政はますます赤字体質を強めることとなります。

 そのような展開になった根本原因は、意次が幕府官僚が主導して資本と癒着する自由のない市場構造をつくり上げたことです。そしてこの構造は、途中2度の大破綻を経験してもなお、現在に至るまで変わっていません。そうした3四半世紀ごとに大経済破綻する日本の経済構造の基礎を作ったのが意次です。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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