小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔3〕大商家の変貌

(1) 大商家の所有と経営の分離

 幕府の官僚の行状について多くを論じてきましたが、商家にも官僚は誕生していました。英語には、1860年以前にアメリカの大企業がまだ終身雇用制であった頃の企業経営を行う仕組みのことを官僚制(bureaucracy of a corporate settingなど)と呼ぶことが一般に行われていました。企業官僚制(corporate bureaucracy)という言葉も時々使われるようです。現代日本の大企業の大半の人事構造は、この企業官僚制に該当します。経営者たちが終身雇用、或は年功序列で、安定的経営を行うことが最も重要だと考えるような組織構造のことを指すのが、この企業官僚制という言葉です。

 ところで、江戸時代の大商家は、既にこの企業官僚制を採用していました。商家の主〈あるじ〉がすべてのことを決め、商家に働く者を指示していたわけではないのです。そのことを、江戸時代最大の商家である三井家について見てみたいと思います。

 三井は本家を中心として11家で構成されていますが、そのような大きな組織をどのようにまとめて有効に機能させるかが大問題でした。十分な連携がなければ、11家すべてが常に経営状態良好というわけにはいかず、中には破綻するものが出ないともいえません。実際に、11家の中から経営に自信をなくし、本家を頼る者も出始めました。そこで、三井は、18世紀初頭に「総有制」という仕組みを確立します。

 総有と共有は、言葉は似ていますが決定的に違うことが一つあります。共有制であれば、資産をもつ者一人ひとりは、基本的にそれを他人に自由に譲渡する権利をもっています。しかし総有制の下では、資産の保有者一人ひとりに資産を自由に処分する権限はありません。資産保有者は、永遠にその組織から逃れられないのです。三井は、11家をまとめる方法として、この総有制という仕組みを採用したのです(宮本又郎著『日本企業経営史研究』〈2010年〉より)。しかし、これだけではまだ、本家の所有と経営の分離は行われたとは言えません。

 三井家の経営の権限と責任を有する経営組織を「大元方〈おおもとかた〉」といいます。そしてこの大元方の実際の経営は、三井家の宗主ではなく、雇い人の中から指名された支配人達が行うのです。宗家は、経営方針の重大な議決を行う時には大元方の会議に参加し議決権を行使するのですが、日常は、支配人達に一切の経営を任せています。いわば宗家やその他10家の当主は、株式総会に出席する株主とほぼ同じ役割しか持っていません。

 11家には、それぞれ三井家の産む利益の中から相当の額が生活費として支払われるのですが、経営参加権は、おおいに限定されているのです。こうして、18世紀初頭に、三井家の所有と経営は分離されており、外部からは招かないというはいうものの、専門家による経営となっています。これは、20世紀後半以降の多くの日本の大企業と同様の形態であると言えます。

 少し、この項の守備範囲を超える話しになりますが、そうした総有制を明治維新以降も引き継ぎながら、明治期に入ってすぐの1874年の三井銀行創設に当たり、200万円の資本金のうち大元方の出資金100万円、三井家の出資金50万円、使用人の出資金50万円とすることを決定しました。大元方の資本自身が三井家と使用人の「主従持合の身代」でし たから、「純然たる三井同苗〈どうびょう:一族の意〉の出資比率は25%になってしまうことを意味していた」(宮本又郎著『企業経営史研究―人と制度と戦略と』(2010年)より)のです。つまり、明治初期には、三井家の出資割合を下げ、使用人の多額の出資を認めるという大改革が行われるのであり、三井の所有と経営の分離は、さらに一段と進むことになりました。

 今の三井グループの企業の所有と経営の分離という仕組みは、こうして、江戸時代→明治時代→そして現代へと次第に発展してきたのです。江戸時代の大商業資本の企業構造は、本質的に今の日本の大企業のものと変わらないということを知っていて欲しいと思います。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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