小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔2〕官僚主導・民間癒着の管理市場ができた

(8) 意次は重商主義者だったのか?

 既に株仲間制度、貨幣制度、そして国土開発制度を企画、実施するに当たって意次がいかなる目論見をもち、どのような姿勢で臨んだかについて、おおよそ明らかにできたかと思います。しかしこれでも意次礼賛論への反論としては十分だということにはならないのです。意次に好意的な学者たちは、以上以外に様々な事項を挙げて意次の先駆性を主張し続けるからです。仕様がないので、それらについて簡単に反証を示しておきます。あまり面白くないので、特に興味ない若い皆さんは、この項をとばして次(ここ)に進んでください。

 ここで触れる事項は、意次に好意的な学者が主張する、(1)意次は貿易を拡大したということと、(2)近代に先駆けて金本位制を確立しようとしたということ、そして(3)近代の中央銀行に匹敵する金融機関をつくろうとしたという3点です。

 第1の貿易政策については、意次に好意的な学者たちが意次は重商主義者であると主張する一番の根拠になっているかもしれません。意次は、銅と俵物〈たわらもの〉の専売制や独占的集荷を進めようとしました。俵物とは、蝦夷地(今の北海道)を中心に採れる干し鮑〈あわび〉、昆布、煎海鼠(いりこ:干しなまこ)などの海産物のことで、吉宗が地方物産振興を言ってより開発されてきたものです。これらの品を輸出し、見返りに中国やオランダから銀を輸入しました。

 これは2つの効果を生みました。1つは、これらの施策と従来より進めていた輸入製品の国産化政策、さらにはヨーロッパの相場に影響を与えるほどにもなった増産した銅の輸出とを合わせた結果、貿易収支が黒字になったことです。そして2つには、不足していた通貨増鋳の原料を得ることとなったことです。しかし、このことは、銅を生産し、或いは俵物貿易で潤っていた諸藩の利益を大いに損ねるものであったため、幕府と諸藩の対立を生んでいます。

 意次の政策には、常に幕府の利益のみを追求するというところがあって、国全体に事業の果実を分け与えるという姿勢はありません。国という「公」より幕府、或いは徳川家という「私」を優先すると言う意味ですが、これは、その一例です。天明の飢饉にあっても、意次は利益を重ねようとする商人たち買い占めに走ることを止めず、飢餓にあえぐ領民を尻目に江戸に米を廻送する東北諸藩の難儀を見ながら一切の援助をしないという姿勢と共通する態度です。

 また、意次を重商主義者であると言うなら、生糸、茶の国産化を推進して、昭和前期に至るまでの主力輸出産品に仕上げた吉宗こそそのタイトルに相応しいはずです。吉宗に比べれば意次の業績はまことに限られたものであり、前者を農本主義者、後者を重商主義者と言い分ける意次に好意的な学者たちの主張を、小塩丙九郎は正当なものとは思えません。

 次は、意次が発行した新銀貨が金貨を基準としていたことから、1897年に明治政府が採った金本位制に先駆けているという主張についてです。しかし、このことを歴史の背景から正当化することはとてもできないでしょう。第1に、イギリスが金本位制に移行したのは1870年代のことであり、田沼意次の時代よりおよそ1世紀を過ぎています。意次の頃の世界は銀本位制であったのです。

 日本は、明治期に入った後、1871年に金本位制としましたが、中国(清)など周辺諸国が銀本位制を採っていたため、1875年に金本位制を採ると宣言しつつ、実態は金銀本位制に移行したのですが、当時の金銀産出量の違いにより銀の対金国際交換比率相場が急落したことにより、金の海外流出と国内での退蔵に会い、結局銀本位制に追い込まれています。そして、その後、銀の価格の恩恵を受けて輸出の拡大に貢献した後(輸出拡大の主要因とまでは言えません)、結局のところ通貨安泰のために世界の潮流に抗うことができずに、1897年になってようやく金本位制を確立することができたのです。その頃世界の金本産出量は安定して金の価格も安定して、一方銀の産出量は不安定であったので、金本位制に従わないと円の評価が安定しないからでした。

 つまり、金本位制になったのは、様々な国内、国際事情の歴史的積み上げの結果であって、それまでに明治新政府は艱難辛苦を重ねています。国際貨幣市場に明治新政府官僚ほどにも明るかったとはとても思えない意次の判断が、先駆的であることができるはずがないのです。これは蝦夷地の開発計画と同様、意次に好意的な学者たちが近代になってからの世界を見て、その方向に意次は向かっていたと主張するまことに強引な論法で、科学的なものとは思えません。そして実際、意次の時代にも、それ以降も、日本は西日本は銀本位制、東日本は金本位制という1国2貨幣制度体制を一度も脱していません。

 最後に、意次が近代の国立銀行に当たる幕府による融資機関を設立しようとしたという主張についてです。意次は財政難に陥っていた諸藩に比較的低利な年7パーセント(通常は、年12から16パーセント)で貸し付ける「貸金会所」を大坂に設立しようとしました。その資金源は、一部は幕府が出すと言うものの、大半は全国の寺社、農民、町人から5年間新たに徴収する税であり、豪商三井にその運営を任せると言う目論見です。大名の財政援助策としては、幕府が大名に無利子で貸し付ける拝借金の制度があったのですが、貸金会所を興す資金は幕府が出すのではなく、強制的に他人から得ようという、何とも横着なものです。

 しかも、資金が諸藩から返済されれば、元金と金利から手数料を引いた額を税の支払者に戻すこととしたのですが、その手数料の一部は幕府にも入って財政を潤す仕掛けです。しかし、この構想は発令(全国御用金令)の2カ月後に撤回されています。全国の多くの者から反対されたからです。幕府には財政難の中でことを行おうとする時、御用金と称する臨時課税を寺社、百姓、町人、豪商たちに課すと言う悪弊がありました。田沼の新政策はその封建政権ならではの強権的な施策の一つの変種であると言えます。そして意次の1番の目的は、株仲間制度をつくった時と同様に、幕府の歳入を増やすということだったのでしょう。

 以上、この項で説明した3つの事案は、幕府にとっての貿易収支が改善されたという点を除いて評価されるものでなく、中央銀行設立企画と意次に好意的な学者たちが主張する案については、わずか2カ月で廃案になったという代物です。これらのことが、意次が近代日本の先駆者であるを主張する根拠としてふさわしいものであるとはとても思えません。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page