小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔2〕官僚主導・民間癒着の管理市場ができた

(7) 意次の国土開発計画の無謀

 意次の革新的政策として意次に好意的な学者たちが挙げる第3の蝦夷地と印旛沼の開発計画についてです。意次の失脚とともに、両事業とも停止されています。蝦夷地については、田沼の跡を引き継いだ松平定信が、中国方面への拡大を抑えられ、日本の北方に進出する気配を示していたロシアを抑えるためには蝦夷地の守備を固めることが第一であり、見込みがつかない開発を行うことはかえって国を危うくすると考えたからです。政敵意次の跡を消したかったというような個人的な思いで行ったことではありません。

 明治維新以降の北海道開発を知る人々は、意次の開明性を評価するのですが、当時の農耕技術で117万町(116万ヘクタール)の水田開発を目指した田沼の計画(大石慎三郎著『田沼意次の時代』〈1991年〉より)にどれほど信憑性があったかはおおいに疑問です。大石は、単位面積当たりの収穫高が内地の半分であると仮定すれば、総石高は60万石にもなると説明しています(著作中には583万石としていますが、1桁計算違い、あるいは印刷違いと思えます)。これは徳川宗家の総石高である400万石を一挙に1.5割も増やすということになり、実現すれば幕府の財政は大きく改善します。

 しかし、蝦夷地は米のとれない酷寒の地であり、だから松前藩は無高〈むたか〉とされていました。意次には、それが松前藩のサボタージュと映ったのでしょうか?

 蝦夷地での米作の試みは、田沼時代入る随分以前の17世紀後半から18世紀初頭にかけてされています。しかし結局は寒冷な気候に勝てず、その試みは放棄されています。そのことを農地開拓にあれほど熱心であった吉宗が知らなかったはずはありません。しかし、その吉宗ですら手をつけようとしなかった米作困難地であったわけです。

 意次が失脚して20年近くたった19世紀初めには、幕府は直轄地とした道南地方水田を開発していますし、それに個人の開墾もあったのですが、それでも10年近くかけて開発できた水田は150町に過ぎません。意次の計画目標の8万分の1の数字です。

 明治になって、北海道で水田耕作の拡大がさらに試みられましたが、明治中期(1891年)に開拓されていた水田の面積は2153町歩(ヘクタール)であり(北海道農政部岩田俊昭著『北海道稲作の生い立ちと水稲生育の特徴』より)、これでも意次の計画値(116万6400町歩)の5,416分の1でしかありません。北海道でも米が量産できるようになったのは、その後の品種改良と近代農業土木技術の導入があったからです。ちなみに、現在の北海道の水田面積はおおよそ20万町強であり、110万町強の農耕地面積のおよそ8割は畑作地です。近代技術をもっても、北海道を意次の計画に沿って水田開発をすることはできなかったのです。


 意次の開明性についての疑いは、印旛沼開発の失敗によって強化されます。印旛沼開拓工事が半ば以上を過ぎた時期に襲った大雨で、それまでに完成した工事分が洪水で押し流されてしまいました。失敗の原因は、天明3(1783)年の浅間大噴火によって吐き出された大量の火山灰が川の水はけを悪くしていたことに気付かなかったからだと言われていますが、17世紀中に開拓から取り残された土地にはそれなりの、特に技術上の、問題がありました。土木技術に長けた大坂の大商家であった鴻池ですら新田開発には失敗しています。より正確に言えば、開発自体は実現しましたが、不採算だったのです(工事期間は1705-07年)。意次には、そのことを先例として学んだ気配がなありません。

 そもそも意次以前に、8代将軍吉宗(在位:1716〜1745年)が、幕府財政を改善するために、出身地の紀州より紀州流治水技術の専門家である伊沢弥惣兵衛為永を召し出させて(前掲菊池利夫著『新田開発』による)、技術開発の基盤を整えたうえで新田開発を熱心に行っています。特に、江戸に近い関東平野については不熱心な勘定所の役人を処分することまでしながら、開発可能地を徹底的に探索させており(大石慎三郎著『吉宗と享保改革』〈1994年〉より)、その時既に印旛沼の干拓にも手を付けています。

 利根川水系は、元々渡良瀬川と鬼怒川もが並行して走っており、周辺は湿地で大雨の度に溢れていたので、17世紀半ばに33年かけてその3川をまとめて江戸湾にではなく直接太平洋に流れ出るよう、近世最大の土木工事を行った場所で(地図はここ)、幕府の役人たちはこの場所の危なさを熟知していたはずです。当時の関東平野は、現代人が知っているような乾いた土地ではありませんでした。20世紀になってもなお台風が来るたびに、堤防の決壊を恐れる人々は眠ることもできず、暗い家の中で震えながら不安な夜を過ごしていました(中村良夫著『湿地転生の記』(2007年)による)。そんな場所です。

 そこに、吉宗の命を受けた伊沢弥が既に印旛沼開発を上方流の流れをくんだ紀州流(蛇行する川を直線状にして固定し、沿岸の遊水池を干拓し、乱流するデルタに新田開発が行えるようにする)の技術を駆使してできる限りのこと(干拓)は既にしています。それ以上の技術開発努力を行った気配がない田沼が、どうして吉宗以上のことをできるというのでしょうか? 要するに、問題の困難さを理解しないままに無謀に挑んだに過ぎない、というのが小塩丙九郎の見るところです。蝦夷地開発の場合にも、そして印旛沼開発のときにも、田沼は現地を管理する役人をまったく信用した気配はありません。これでは、多くの人に嫌われたことでしょう。

 蝦夷地と印旛沼の開発失敗は、結局のところ、意次の科学的根拠を持たない冒険心にその原因があると言わざるを得ません。そして、そのことは、通貨一本化政策の失敗と軌を一にしています。現場を知らない元気ばかりの官僚は、結局その危うさに足を取られたということでしょう。松平定信らの政敵との権力争いの顛末を著せば、面白い歴史小説になる(例えば山本周五郎の『栄花物語』)のですが、歴史の科学としての化学反応として見れば、そう合理的に解釈できます。

2017年1月4日初アップ 2019年2月3日一部記事の訂正
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