小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔2〕官僚主導・民間癒着の管理市場ができた

(6) 意次の貨幣政策は近代的なものだったか?

 意次は、1772年に勘定奉行川井久敬〈ひさたか〉の献策に基づき南鐐二朱銀という新しい銀貨を発行しました。これが意次に好意的な学者たちが高く評価する貨幣政策です。それでは、その様子を詳しく見てみます。

 南鐐二朱銀の革新性は、金貨との交換比率を刻印して定めたことにあります。表面には、「銀座常是」と書いて発行所を表すとともに、裏面に「以南鐐八片換小判一両」と刻印しました。つまり、この銀貨の重さや品位と関係なく、8枚持っていけば、小判1枚に替えると宣言したのです。ここで、2つの新たな事象が発生します。金銀通貨とも表示してある金額や枚数で価値が定まります。そして、いちいち秤で測らなくても銀貨の価値は決定され、保証されます。このことを、意次に好意的な学者たちは南鐐二朱銀は、従来の秤量〈ひょうりょう〉銀貨を計数銀貨へ変えたと言って高く評価するのです。

南鐐二朱銀
南鐐二朱銀(右:表面、左:裏面)
 〔画像出典:Wikipedia File:Meiwa-nanryo-2shu.jpg; 著作権者 As6673〕

 しかし、これについては歴史経済学者の西川俊作による重大な反論があります(以下、西川著『日本経済の成長史』〈1985年〉による)。第一に、南鐐二朱銀の品位はすこぶる高い(98パーセント)のです。「南鐐銀」とは、輸入した良質の銀という意味で(実際には輸入銀を多くを使ってはいません)、品位をほぼ100パーセントとしたのですが、それまで流通していた銀貨(丁銀;現物の写真はこれ)に比べれば非常に小さく10分の1ほどでしかありません。

 それまでは、丁銀(その実物写真はここ)およそ2.2本で小判1両と交換できたのですが、その10分の1しか重さのない南鐐二朱銀の品位がいいと言っても、それが8枚で銀1両と交換できると言うのですから、新旧銀貨の金貨との交換比率を計算すると1割ほどの出目、つまり幕府の利益が発生します。品位の良さは、この幕府の出目をとることの目くらましであったと言えるのです。

 その上で、金本位・計数貨幣制でいくというのであれば、従来の重さで価額が決められる丁銀をすべて回収して、それを二朱銀に置き換えなければならないはずです。しかし半世紀近くも経った南鐐二朱銀が発行された次の改鋳期である1818年に至っても、全発行貨幣高(銭を除く)のうち計数銀貨20.3パーセントに対して、秤銀貨が14.4パーセントもあります(残りの65.3パーセントは金貨;以上経済学者岩橋勝の推計による)。つまり、南鐐二朱銀が初めて発行されてから半世紀近く経っても、流通する銀貨総額のうち4割以上は依然として秤量銀貨なのです。このことは、南鐐二朱銀の流通がゆっくりとしか拡大しなかったことを意味しています。

 これらの事実から、西川は、意次の目的は、貨幣制度の統一ではなく、専ら出目を獲得することにあったと結論付けています。さらに、19世紀初頭以来大流通された藩札は金づかい(金貨を基準とする)ではなく、ほとんど銀づかい(銀貨を基準とする)となっており、「地方通貨を含めた金貨単位による貨幣統合は実現していない」(新保博・斎藤修著『概説 19世紀へ』〈岩波書店『日本経済史 2 近代成長の胎動』《1989年》収蔵〉より)のです。その他、後に紹介する意次の諸々の行動から判断すれば、多くの歴史経済学者の意次革新経済家説より、西川の意次幕府財政重視説の方が、はるかに説得力がある、と小塩丙九郎には思えます。

 さらに、田沼の政策が実施される中で、庶民が一番使う銭やその他の少額貨幣の価値は低下を続け、庶民にとっての実質所得は低下しました。金・銀貨を扱える者と銭しか使えない者では物価変動の様子が違ってきたのですから、損をする一方の庶民には不評になったはずです。株仲間の強化と少額貨幣の価値の低下の2つによって実質的な物価高を押しつけられた庶民が田沼を嫌うことに、不思議はありません。失脚しても、同情はされないのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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