小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔2〕小資本も巨大資本も自由ではなかった

(4) 財閥はどのようにして生まれたか?

 明治から太平洋戦争敗戦時まで、産業界に君臨した財閥は三菱と三井であることはよく知られている通りです。そしてそれに続く規模の財閥として住友(以上3大財閥)や安田(以上4大財閥)があります。さらにそれより小さな規模の財閥として古河〈ふるかわ〉、鴻池〈こうのいけ〉などがあります。

 三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎〈やたろう〉は、土佐藩の地下浪人〈じげろうにん〉の息子として生まれ、藩主山内豊熈〈とよてる〉に漢詩の才を認められたことから出世を初め、山内容堂に引き立てられて権勢を得た後藤象二郎に藩の商務組織である土佐商会主任に抜擢された上に、後藤の周旋で土佐藩の負債を肩代わりする条件で船を手に入れ三菱商会を設立します。さらに、後藤から維新政府の藩札買い上げ方針を打ち明けられて藩札を買い占めて、それを政府に売り巨利を得て(今で言えば、インサイダー取引)、さらには台湾出兵(1874年)と西南戦争(1877年)の何れにおいても政府の輸送業務を独占して大発展した結果大財閥となりました。いわば新興の、そして根っからの政商です。

 そして三井は、江戸時代前期からの堂々たる豪商でした。しかし、三井の明治期での成長は、容易に成し遂げられたものではありません。三井、小野、島田の京の豪商3家は、幕末(1857〜63年、函館、敦賀、大坂)に幕府が設けた日米修好通商条約に基づく貿易を行うための期間である物産会所の出資者でもあり、彼らは幕府に対する忠誠を果たす態度を見せる一方で、戊辰の役(ぼしんのえき;1868年〜1869年)には、京より江戸に向かって東進する官軍を経済的に支援しています。以前より藩の専売制の運営等を通じて関係を深めていた(その詳細はここ)西南日本諸藩が優勢になったので、勝ち馬に乗る姿勢をより明快に示したまでのことです。しかし、鴻池はその馬に乗り損ないました。

 維新を成し遂げる上で経済的に関係を深めた三井、小野、島田の3家に、官軍は、戊新の役の頃よりこれら3家に公金を扱うことを任せました。維新がなって以降も、政府は巨額の公金を無担保、無利子でこれらの3組(明治期に入り家ではなく組と呼ばれるようになっていました)に預けたので、3組はそれを資源として米相場に投資し、或いは生糸や養蚕の取引、さらには鉱山業や運送業にも業務を拡大しました。

 しかし年数を経て新政権も落ち着きを得ると、政府官僚は3つの組に対する余りの厚遇についての批判を恐れて、関係を清算したいと考えるようになりました。1874年、政府は3つの組に対して、当初は預け金の3分の1相当額を、さらに8カ月後には全額に相当する担保を提出することを要求しました。対応が不可能に近いほど困難であることを知りつつの難題でありました。ここで、小野、島田の両組は年末に破綻して、脱落します。

 ただ、三井1組だけが踏ん張りました。政界から下野して三井の専収会社(三井物産鰍フ前身)の社長の席にあった井上馨(かおる;長州藩士→大久保利通大蔵卿の下での大蔵大輔〈副大臣格〉)が大隈重信大蔵卿(大蔵大臣)に強力にはたきかけ、3組とも一挙に潰せば金融が混乱するとして説得を続ける一方、オリエンタル・バンク(イギリス東洋銀行)から融資を受け、それを政府への支払い財源として難局を先ずは乗り越えます。

 そしてその後、大隈は、台湾出兵で清国から得た賠償金をオリエンタル・バンクに預け、さらに貸付金を上乗せして、三井組の返済の猶予を得ました。そして1876年に三井が返済を完了するときに、三井の債務を大蔵省が肩代わりしました。つまり、三井→井上→大隈のラインが三井のみを生き残らせたのです。三井財閥が政商と言われる所以〈ゆえん〉です。こうして、政府官僚と強い繋がりを築き上げた三菱と三井が、20世紀前半の日本経済界のチャンピオンとなるのです。

 鴻池は、江戸時代には三井と並び立つ京都を本拠とする豪商でしたが、19世紀に入る頃から諸藩の財政難のあおりを受けて第一の本業である大名貸しが赤字同然にまで陥るほど経営が悪化していたために活力を失っており、維新に当たって三井ほどの接近を新政府に対してしませんでした。そのために、明治期に大きく発展することはありませんでした。しかし同時に、島田、小野のように破綻することは免れましたので、不運であったとは言えないでしょう。1877年には第十三国立銀行(後の鴻池銀行)を設立するものの、しかし新政府官僚から三井のように目をかけられてはいない分、その発展力は大きくはありませんでした。家訓に忠実であったせいであるのか、新規事業への取り組みも慎重で、時代の産業発展のニーズを捉える事もできませんでした。しかし、それでも、二流とされたとはいえ、財閥と呼ばれるほどまでには育ちました。

 それより成長したのは、住友と古河です。住友は、江戸時代より南蛮吹きと呼ばれる銅精錬技術を得て、世界最大級の産出量を持つ別子銅山を経営していましたが、これが明治新時代の産業発展がおおいに必要とするところとなり、鉱山業で得た巨利を元に財閥に育っていきました。一方、古河は、市兵衛が小野組に資産や資材を提供して発展していったのですが、小野組が破綻した後独立して事業を行うこととし、政府から草倉銅鉱山(現在の新潟県)の払下げをうけ、そこから得た利益を元に財閥に成長しました。産業革命期に大資本として発展できたのは、造船業と鉱業であり、住友、古河両家は時代の波に乗ったのです。


 安田は、幕末の新興幕府御用商人でありながら、時代を乗り越えることに成功しています。幕末の1866年に安田善次郎が日本橋小舟町で御用両替商として巨利を得たのですが、新政府の発行した、当時まだ信用が薄かった太政官札を額面割れした廉価で収集しまくって、1869年に額面通りの価格で新札に切り替えることに成功して巨利を得ました。それを元手に第三国立銀行を設立し、さらに安田商店を安田銀行(後の富士銀行、現みずほ銀行の前身)に改組し、諸官庁の両替その他金銀取り扱い業御用立つとなり、業務を拡大して財閥となりました。時代を読んだ善次郎のはしこさが、安田をつくったと言えます。或いは、新札切り替え方針を、新政府の誰からか聞いて知っていたのか、それについての情報は残されていません。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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